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「洗える畳」の普及を通じて、畳文化を次世代に引き継ぎたい(株式会社小田畳商会・社長 小田正弘氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


鹿児島市内で100年近い間、畳づくりを続けてきた小田畳商会。2代目の小田正弘社長は、畳業界の衰退への危機感から、軽量で衛生的な「洗える畳」の開発に取り組み、成功させた。一般家庭をはじめ、病院や介護施設、ホテルや旅館など、様々な場所で利用される『洗畳(せんじょう)』の開発を小田社長が振り返る。

小田畳商会の小田正弘社長が「洗える畳」を発想したきっかけの1つは、1993(平成5)年夏、鹿児島県に大きな被害をもたらした水害だった。

地元では、いまも「8.6豪雨」と呼ばれ人々の記憶に残る水害は、死者71名、床上浸水9118棟、床下浸水7315棟と、県内に甚大な被害を与えた。鹿児島市の同社も、在庫していた畳の4割が浸水する被害を受けたが、小田社長は難を逃れた畳およそ1800枚の無償提供を決意。被災した顧客をはじめ、復旧支援の窓口を通じて公共施設などに畳を提供するため、従業員総出で作業に努めた。

ところが、浸水した畳の引き取り作業は大変な重労働だった。吸水性に優れた畳の特徴が仇となり、重量が5倍以上に増加。水害直後の畳は、1枚あたり100キロにも達したという。しかも、いったん水を含んだ畳は乾燥させてもカビが発生し、堆肥のようなにおいが出て、使い物にならない。それまでも、業界には防水機能をうたう畳が存在していたが、そのほとんどは技術的な未熟さから不衛生な点が問題とされて、普及するには至らなかった。小田社長は、従来より軽量で、衛生的な「洗える畳」の開発を心に決めた。
以来、県の工業技術センターや合成樹脂メーカーなどとも協力して試行錯誤を重ね、12年後の2005年、商品化に成功。『洗畳(せんじょう)』という商品名で発売すると、一般的な畳の2~3倍と高額だったにもかかわらず、ホテルや旅館などから問い合わせが相次いだ。07年には特許も取得。大浴場に敷き詰められた畳が評判になり、一般家庭のほか、病院や介護施設にも施工例が広がっていった。

その後、09年からは『洗畳』のレンタルサービスも開始。比較的、手ごろな価格での導入が可能になり、定期的なメンテナンスによって防水畳の不衛生なイメージを払拭することにもつながった。現在、『洗畳』は全国の400以上の施設で利用されている。

◇    ◇    ◇

実は、世間様に叱られやせんかと、ひそかに心配していたんです。畳は大切な日本の伝統文化ですから、それを水洗いしてしまうなんて何を考えているんだ、と。実際、「邪道だ」とのご批判をいただいたこともありました。

商品の可能性はお客様が広げてくれる

伝統的な畳は、畳床(たたみどこ)と呼ばれる芯材をい草で編んだ畳表(たたみおもて)でくるみ、畳縁(たたみべり)という帯状の布で縫いつけてつくります。『洗畳』も、その工程自体はほとんど変わりません。でも、素材が違う。畳表は、プラスチックの一種であるポリプロピレンなどでできた特殊な繊維で編みます。畳縁もポリプロピレン製で、芯材には発泡ポリプロピレンシートやプラスチック段ボール、ポリスチレンなどを何層も重ねています。

手前味噌ですが、見た目の質感や肌触りは、い草の畳表と比べても遜色はありません。また、アトピー性皮膚炎やアレルギー諸疾患の患者さんにもお使いいただけることから、日本アトピー協会の推奨品になっています。クッション性や断熱性など、伝統的な畳の機能はしっかり受け継ぎながら、1枚あたり約7キロと軽量化も実現しました。

しかし、い草を使わない畳を畳と言えるのか。ずいぶん悩みました。「洗える畳」を開発することが、本当に畳業界や日本の伝統文化に貢献するのか。逆に、弓を引くことになるのではないか。そんな不安を感じたことも、一度や二度ではありませんでした。

ただ、その一方で、昔ながらの畳をつくり続けるだけでは、畳文化の衰退を食いとめられないことも自明でした。私自身は、70年代後半から畳の将来に危機感を覚えていました。このころあたりから、畳の色あせや汚れを嫌って、畳の上にカーペットを敷く家庭が増えてきたんです。その後、畳はどんどん減り続けました。洋風の生活様式が定着してしまった以上、その流れはもう変わりません。従来にない機能を加えて、畳の可能性を広げていくしかない。

そんな考えから、様々な機能を模索しているとき、「8.6豪雨」を経験しました。「洗える」だけでなく、女性やお年寄りでも扱えるくらい軽くなれば、畳の用途も広がるに違いない。天然のい草は使わなくても、それと似た繊維を用いれば、畳の「形」だけでも守ることができるだろうという考えです。

とはいえ、実際に『洗畳』をご利用いただくようになると、その使用例は私どもの想像をはるかに超えていました。

たとえば、介護施設でお使いいただくようなケースは、私どもも想定していました。軽くて扱いやすいため、クッション性に優れた『洗畳』は、転倒時などの危険を軽減します。

ところが、ホテルや介護施設の浴場に敷き詰めるようなケースは、想像が及びませんでした。近ごろは、プールの底に敷いて水中ヨガ教室を開いたり、一般のご家庭でウッドデッキにご利用いただくケースもあります。そうして施工例が広がっていくことによって、お客様が『洗畳』の新たなニーズを教えてくださったんですね。商品の可能性を広げるのは、つくり手ではなく、お客様であることをつくづく実感しました。

◇    ◇    ◇

同社は1918(大正7)年、小田社長の父仙兵衛氏によって創業された。丁寧な職人仕事が信頼され、間もなく鹿児島市内でも有数の畳店に成長。戦後は、旅館やホテルなどの大型施設を中心に顧客を拡大し、やがて建設業界にも営業活動を展開すると、高度成長期には県内に新築されるマンションに使用される畳をほぼ独占するまでになった。

1941(昭和16)年生まれの小田社長は、63年、中央大学経済学部を卒業。中外製薬に入社し、営業担当として東京や北陸などに勤務した。5年後、同社を退職して帰郷。仙兵衛氏が経営する小田畳商会に入社し、以後2年間、父から畳職人としての技術を徹底的に教え込まれた。

80年、仙兵衛氏の死去により2代目社長に就任。県営住宅や職員住宅など、行政が管轄する住宅への販路開拓を手掛ける一方で、畳そのものの需要減を見越して、機能性畳の開発に着手。開発部門の「仙夢(せんむ)」を設立して、畳表に文字や絵柄を印刷するファッション畳を企画し、印刷会社と共同で特殊インクの開発に取り組んだ。ところが、数億円の費用を投じながら、開発は難航。開発と改良に8年間を要し、その間、本業以外に絵はがきの作成なども手掛けなければならないほどの経営難を経験した。

◇    ◇    ◇

家業の仕事を始めた初日、父に「おまえは、営業をすっとじゃなか」と言われました。「営業してはいけない」ということです。そのくせ、「売上を伸ばせ」と言う。「同業者に迷惑をかけるな」とも言われました。まるで禅問答です。

いまと違って、当時の父親は絶対的な存在です。わが家でも事情は同じで、父の言葉を自分なりに解釈するしかありません。しばらく考えた末、「新しいマーケットを開拓せよ」という意味であったと思い至りました。のちに開発する『洗畳』はもちろん、特殊インクの開発も父の言葉が原点で、畳表への印刷を発想したのは、畳の上に敷かれたカーペットをはがしたい一心からでした。とにかく、畳とじかに肌を接しなければ、その心地よさを感じることはできません。新しいマーケットを開拓することで、畳の復権にもつながるかもしれない。

そんな考えから特殊インクの開発に取り組んではみたものの、難しかったですね。製品化に成功してからも、なかなか結果が出ませんでした。

ようやく手応えを感じることができたのは、08年に開催されたサッカーのクラブチーム世界選手権大会に私どもの商品が採用されたときでした。晩餐会のメニュー表として、畳表にメニューを印刷したオリジナル商品を使っていただいたんです。それ以降、少しずつではありますが、特殊インクで印刷を施した小物や畳も売れるようになりました。

自分自身と対峙する、不安に打ち勝つ

あくまで、い草を使った伝統的な畳づくりを本業としながら、販路開拓や新商品開発に斬新な挑戦を続ける同社の取り組みは、凋落傾向にある畳業界全体に新たな刺激をもたらした。そうした功績が評価され、01年、小田社長は厚生労働省認定「卓越技能賞(現代の名工)」を受賞した。

また、『洗畳』の開発によって、09年には財団法人発明協会が主催する「九州地方発明表彰」発明奨励賞を受賞。12年には「ものづくり日本大賞」九州経済産業局長賞を受賞するなど、畳の新たな需要を掘り起こした開発が、高く評価されている。

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振り返ってみれば、「8.6豪雨」の少し前あたりのころが最も苦しい時期でした。世間は、ちょうどバブル経済が破綻したころですね。とにかく、売上が伸びない。特殊インクの開発にはこぎ着けたものの、それまでにつぎ込んだ開発費が重くのしかかってきます。

それでも、どうにかもちこたえることができたのは、専務を務める弟をはじめ、親類や従業員の理解と協力があったからだと思います。加えて、私自身、畳が好きだったからでしょうね。

どんな業界でも同じだと思いますが、新しい何かを開発しているときほど楽しく、気分が高揚する時間はありません。ところが、これほど不安な時間もない。とくに、長い時間をかけても結果が出ないとき、胸が押しつぶされそうなほどに不安なんですね。それは、結果が出るかどうかという不安ではありません。むしろ、結果は必ず出ると信じている。死にものぐるいになって取り組めば、モノは必ず応えてくれます。

ところが、自分にその資格があるのかどうかが不安なんですね。人前では景気のよいことを言うけれど、本心では開発をあきらめてはいないか。畳好きを公言するけれど、実のところ、たいして興味がないのではないか・・・。

結果が出ないとき、そういう疑念と戦い続けています。つまり、取り繕うことのできない裸の自分自身と対峙しなければならない。これはつらいです。時には目をそむけたくなりますが、そうして対峙し続けない限り、途中で挫折してしまう。幸いにして、私は自分自身を信じ続けることができました。

それは、おそらく日本独自の文化である畳を次の世代に引き継ぐことが、自分たちの世代の役割と意識してきたからでしょうね。自分のためだけの挑戦だったら、挫折していたと思います。今後もその気持ちを強く意識して、創業100周年の節目を迎えたいと思っています。

月刊「ニュートップL.」 2013年8月号
編集部


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