社運を賭けて実現した世界で唯一の角型深絞り技術(株式会社ナカザ・社長 中座義行氏)
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1枚の金属板をプレスして底付き容器に加工する深絞り技術において、ナカザは世界から注目される企業である。「難度の高い角型深絞りで、底面を限りなく平坦にする技術を手がける企業は他にない」と創業者の中座義行社長は語る。一時は倒産の危機に陥ったが、技術を極めて巻き返しを図る同社の軌跡を追った。
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貴社の図面寸法通りの品質で物を作るべく約2年間努力を続けて参りましたが、これ以上製作を続けることは弊社の技術力では困難との結論に至りました--。「お詫び」と題した2010年10月25日付の一枚の手紙の文面である。深絞り加工やプレス加工を手がけるナカザの中座義行社長(73歳)が綴ったもので、苦汁の思いがにじみ出ている。大手計測器メーカーからの依頼で取り組んだ流量計の計測器ケースの開発を断念することを詫びる内容だった。
手紙は、「金型費に付きましては12回分の分割返済とさせて頂きたくお願い申し上げる所存でございます」と続く。開発費としてメーカーから預かった1,000万円を返金する覚悟も固めていた。実はその時点で2,800万円を投じ、予算を大幅にオーバーしていたのだ。中小企業には過重な負担だろう。
「資金的に耐えられなくなっており、やむにやまれず手紙をしたためました」と中座社長は述懐する(以下、発言は同氏)。
だが結局、この手紙が投函されることはなかった。中座社長の妻であり同社専務の弘子夫人の兄、大久保賢司氏(73歳)が「もう一度やらせてくれ」と中座社長を説得したからだ。
大久保氏はプレス加工会社として名高い大久保製作所(東京都荒川区)の創業家の五男に生まれ、長年、深絞り加工に取り組み、燃料電池用ケースや携帯電話の筐体(きょうたい)を初めて作った一流の職人である。大久保製作所を定年退職した後、09年にナカザに入社していた。中座社長は義兄の言葉と実力に望みを託し、再度開発に取り組んで見事に成功したのである。
同社が依頼された計測器ケースはステンレス製で、縦横165ミリ角、深さ122ミリの八角形の箱型。角はわずかに丸みを帯び、底面の平へい坦たん度をプラスマイナス0.2ミリ以内に抑える仕様だった。
深絞りは、パンチとダイスと呼ばれる凸と凹の金型に金属板を挟んでプレスし、容器状に成型する。その際、金属にシワが発生しないようにブランクホルダーという板を挟む。鍋など円筒状に加工する場合に比べ、角型絞りはシワが起こりやすく、金属板が破けてしまうこともある。しかも、底面を平らに加工するのは至難の業だという。
2年以上費やした技術で世界から認められる
大手計測器メーカーは、様々なプレス加工会社に計測器ケースの製作を依頼したが完成に至らなかった。その数は18社に及び、09年2月、最後の頼みの綱であるナカザに駆け込んだのだった。中座社長は以前、アルミニウム板で同様のサイズの深絞りを手がけたことがあり、「できます」と即答した。しかし、いざ着手してみると想像以上に難度の高い仕事だった。
深絞り加工のためには金型が必要だが、協力会社には製作不可能だと断られた。そこで、入社したばかりの大久保氏を頼った。大久保氏は図面を一瞥して、その難しさが理解できたので躊躇したというが、「これができなければ倒産する」という中座社長の切実な言葉を耳にして、取り組むことを決心した。
深絞りでは工程に応じて複数の金型を用いる。大久保氏は6工程に及ぶ成型方法を計画し、6組12基の金型を作った。しかし、2工程目で材料であるステンレス板がボロボロに壊れてしまった。金型代は1基100万円前後である。約1,200万円を費やし、メーカーから受け取った資金を使い切ってしまった。その後も失敗続きで成果はまるで得られず、冒頭の詫び状を綴ることになったのである。
「義兄の熱意もありましたが、依頼先の担当者が2年間も励まし続けてくれて、『ナカザでできなければあきらめるしかない』と言うのです。その情熱に報いたい気持ちも強かった」
大久保氏は試行錯誤を繰り返して新たな加工法を確立。計測器ケースの加工に成功し、11年6月から納品を開始した。
「新たな加工法は昔のやかん作りの技術を応用したものです。60歳以下のプレス技術者は知らないかもしれませんが、仕組みは意外と簡単なこと。ただ、誰も思いつかなかったんです。角型深絞りで当社と同様の底面平坦度を実現できる企業はないと思います」
この計測器ケースは依頼先メーカーによってヨーロッパ計器展示会に出展され、「日本人にしかできない仕事だ」と現地で絶賛された。先方の担当者が中座社長に報告に来たという。この成功によってナカザには、角型深絞りの受注が数多く舞い込むようになった。海外大手メーカーからの引き合いもある。
ナカザは、加工の難しい硬質なチタン材の深絞りや、楕円形や三次元の特殊形状深絞り、非対称形の深絞り、極細の深絞りなど難度の高い加工に次々と成功。同業他社ではできない試作案件が多く持ち込まれる。
こうした実績に対して、11年2月には本社登記地がある東京都北区から「きらりと光るものづくり顕彰」を受賞。同年11月には東京都の「東京マイスター」(東京都優秀技能者)に認定された。
学歴差別に失望し独立して起業
中座社長は1939年、茨城県内の農家に生まれた。結婚問題などを巡って父と大げんかしたため、21歳のときに家を飛び出して着の身着のままで上京し、親戚の家に転がり込んだ。求人募集のあった証券会社の営業職に応募したが不採用。だが、あきらめきれずに、なんとその証券会社の社長宅を調べて自宅を訪ねたという。会うことはできなかったが、後日、社長から会社に呼び出され、履歴書を持参して訪ね、面談を受けると鶴の一声で入社を許された。
証券に関する知識はなかったが飛び込み営業を続けるうち、資産家の質屋から数千万円の大口取引を請け負った。入社2年目のことである。中座社長の人なつっこさと営業に対する姿勢がその顧客の気持ちをとらえたのだろう。
その後も順調に取引を増やし、給料の100倍もの株式売買手数料を獲得した。若手でありながら全社で3番目の成績を挙げ、係長への昇進の声が社内で囁かれるようになったが、上司である課長から「本来は昇進できる成績だが、中卒の君を大卒社員より早く昇進させることはできない」と告げられた。
中座社長は学歴で昇進が左右されることに失望した。なにより、これまで中座社長を「さん付け」で呼んでいた同僚が、係長に昇進した途端に「君付け」に変わったことに屈辱感を味わい、退職して独立しようと決心したのだという。
「社長が『俺の目に狂いはなかった』と私を評してくれたのを聞いたときは、とてもうれしかった。ですが、学歴で出世が決まるなら、会社にいても仕方がないと思ったんです」
だが、どんな商売をすればいいかわからなかった。退職するまで営業を続けながら、顧客先で独立したいと話をすると、5人の社長から「それならうちの婿になれ」と誘われたという。よほど見込みがあると思われていたのだろう。結局、あるプレス会社の社長が「面倒を見てやる」と声をかけてくれ、66年、技術も知識もなかったが、個人事業としてプレス加工を始めた。
「幼少の頃、母から『鶏口となるも牛後となるなかれ』とよく言われていました。雇われ人ではなく、会社は小さくとも社長になりたいと思っていたことも大きかったですね」
事業を始めたものの、面倒を見てくれると言っていた社長から仕事が回ってくることはなかった。そのため、名刺を作って周辺のプレス会社に片っ端から営業をかけた。多い日は100軒以上、訪問したという。
ほとんどの会社で門前払いにあったが、証券会社時代に磨いた飛び込み営業のスキルも活き、自動車部品など少しずつ受注を増やしていった。取引先から技術を教わりながら、見よう見まねで覚えていった。
ナカザを支えてきた立役者の1人が実は弘子夫人だ。おもに経理や事務などを担当し、中座社長と二人三脚で会社を育て上げてきた頼もしいパートナーである。前述したように弘子夫人の実家が大久保製作所という業界では知られたプレス加工会社であり、仕事を融通してくれることもあった。
その後、同社は順調に業績を伸ばしていったが、あるとき、利益率の高い仕事を手がけられることになり、他の受注を断って集中して取り組んだ。しかし、結果的に景気の悪化を理由に突然、注文を打ち切られて売上の多くを失った。中座社長と弘子夫人は得意先を絞り込むのは危険であると痛感し、その後、複数の安定受注先を獲得するために営業に励むようになった。そうしたなかで現在、1番の得意先である三菱電機と出合った。
もともと中座社長には何の伝もなかったが、資材課の係長に面会したことをきっかけに、1週間に2回ずつ通い続けた。半年ほど経ったころ、ついにパソコンのハードディスク部品の加工を受注。だが、部品を仕様通りに加工できず取引停止を勧告された。この状況を救ったのが弘子夫人である。何度も係長を訪ねて取引継続を懇願し、その間に中座社長が仕様通りの部品を作り上げ、納入できるようになったのである。以降、30年間取引が続いている。
全社員で社業に打ち込み危機を脱する
東芝とも長年取引しているがそのきっかけは、かかりつけの医者から東芝の部長を紹介されたことで、コピー機の部品を受注した。中座社長はその御礼として資材課の担当課長に米を贈ったが、その行為が裏目に出た。「買収工作だ」とあらぬ疑いをかけられたのである。本来であれば取引中止になるところだが、ここでも弘子夫人が資材課に駆け込んで翻意を促し、関係を継続できたのだという。
企業が永続していくためには技術や品質を高めるだけでは十分ではなく、泥臭い努力を積み重ねていくことも欠かせない。
だが、そうして築き上げた取引先との信頼も、ちょっとしたミスで崩れることがある。同社では大手二輪車関連企業から金型製作とプレス加工を30年近く請け負っていたが、営業の受注ミスが原因で金型製作の取引を停止され、ほとんど利益を上げることができなくなった。
プレス加工の単価が安すぎたことも一因だが、その後、ナカザ側から取引を断る結果となり、2000年頃から、同社は危機に陥った。三菱電機がノートパソコンの生産を中止し、部品の注文がなくなったことも重なり、赤字に転落したのである。
「景気も悪化していたため他社からの注文も減り、取引銀行からはリストラしろとしつこく言われましたが、長年働いてくれている社員のクビは切れません。社員たちと話し合って給料を3割下げ、皆で営業と技術開発に取り組みました」
営業担当が飛び込んだ会社の社長がたまたま中座社長の知り合いだったことをきっかけに、自動車のバンパー関連の発注を獲得したり、かつて同社に在籍した社員が自動車メーカーに転職し、ハイブリッドカーの電池関連の仕事を発注してくれるなど、幸運にも恵まれた。
そうした状況のなか、先述した計測器ケースの依頼が舞い込んだのである。厳しい経営状態が続いていたが、同社は試行錯誤をくり返して開発にこぎ着けた。倒産の危機を脱し、さらには世界から認められる存在となっていったのである。
現在では、燃料電池に使われるステンレス製セパレーターを低コストで加工する方法を確立するなど、今後、有望な技術も手がける。初の自社製品であるLED照明機器用の留め金具を10年に発売。これまでに150万個以上を出荷している。
「社員のクビを切らずにがんばってきて本当によかったと思います」と中座社長は言う。経営が苦しいときにも社員と一丸になって、取引先からの要望に対して一所懸命に取り組んでいく姿勢を貫いていったのだ。だからこそ、オンリーワンといっても過言ではない技術力を手にすることができたのだろう。
月刊「ニュートップL.」 2012年9月号
吉村克己(ルポライター)
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