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茶農家の女性の手づくりスイーツで「土佐茶」のおいしさを伝えたい(株式会社池川茶園・社長 山中由貴氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


高知県産の「土佐茶」は知られざる銘茶で、400年以上の伝統をもつ。だが、近年は需要が減り、低迷を余儀なくされてきた。そうした状況に危機感を抱く製茶農家の主婦たちが、池川茶園を創業。土佐茶を用いたスイーツを開発して、人気を集めている。山中由貴社長が、創業の経緯と商品に込めた夢を語る。

7月25日、高知県茶業振興会主催の「第49回県茶品評会」で、池川茶業組合(仁淀川町)が最優秀の県知事賞を受賞した。

同品評会は、県内で生産される一番茶(新茶)の品質向上をめざして、毎年1回、開催され、ことしはJAや個人などから47点が出品された。1993年、池川地区の8軒の製茶農家によって設立された同組合は、これまでにも品評会で様々な賞を受賞。2008年には関西茶品評会で農林水産大臣賞を受賞し、「土佐茶」の実力を全国に知らしめた。

栽培に適した気候や地形に恵まれた高知県産の茶は、もともと全国の製茶業者や農家から品質を高く評価されてきた。しかし、静岡や宇治のような「看板」がない。そこで、多くは荒茶(あらちゃ)として出荷され、著名産地の茶とのブレンドと最終加工を経て、製品化されていた。畑から摘み取られ、一次加工を終えた茶を荒茶という。

だが、04年から茶の産地表示基準が変わり、使用割合が100%の製品にのみ、産地表示が許されることになった。それをきっかけに、荒茶の需要が減少。卸値も崩れた。土佐茶もピーク時の半値近くまで価格が暴落し、同組合は一転して窮地に追い込まれた。

土佐茶の香り高い風味やまろやかなうま味を、一般消費者にも広く伝えなければならない――。

茶の栽培と研究に没頭する夫たちとともに、同組合の女性たちも土佐茶の販売促進に知恵を絞り、情報収集に努めた。やがて、土佐茶を使ったスイーツの開発を発案。未経験者ばかりだったが、5人の主婦が協力して研究を重ね、県のアドバイスも得て、4年がかりで『茶畑プリン』の開発に成功する。

そして、仁淀川沿いに「池川茶園 工房Cafe」を出店。11年、スイーツの製造・販売とカフェ運営の池川茶園を創業し、主婦たちを代表して山中由貴さんが社長に就任した。5人が均等額を持ち寄った「へそくり」が、創業資金になったという。

『茶畑プリン』は「工房Cafe」とインターネットで販売されたほか、県が土佐茶のPR拠点として出店する「土佐茶カフェ」や高知龍馬空港、県内の宿泊施設などでも扱われ、手づくりの素朴さと濃厚な土佐茶の風味が口コミで広がると、間もなく人気商品となった。

また、茶農家の主婦たちの挑戦がマスコミの注目を集めたこともあり、初年度は目標をはるかに上回る2000万円を売り上げた。さらに、2年目となる昨年度の年商は1.5倍に増加。『茶畑プリン』を目当てに「工房Cafe」を訪れる旅行者も数を増し、過疎に悩む小さな町にあって、同社は新たな観光資源にも育ちつつある。

◇    ◇    ◇

高知県には仁淀川とか四万十川とか、全国的にも名を知られた清流があって、その流域の山間地域で、昔からよいお茶ができたんですね。寒暖差が大きくて、霧が出ますでしょう。それが苦みの少ない、まろやかなお茶を育てるんです。土佐茶には、400年以上の歴史があるといわれています。

ところが、高知県内でも土佐茶をご存じない方が少なくありません。私たちの「池川茶」はもちろん、まずは土佐茶の存在を多くの方々に知っていただく必要がある。そう考えたのが、そもそもの始まりでした。産地表示基準が変わる前後のことです。

茶が恋しくなるような菓子の開発に取り組む

でも、具体的に何をしたらよいのかがわからない。農家ですから、お茶の栽培にかけては自信があっても、商売については素人ばかりで、まったくの手探りです。県の窓口に相談して、お茶の試飲会などもやってみましたが、手応えを感じるには至りませんでした。

そうしていろいろ考えているうち、お茶を使ったお菓子をつくってみようという話になったのは、やはり主婦の目線かもしれませんね。お茶そのものを売る方法を考えるのは、私たちにとって、なかなかに難しいことでしたけれど、お菓子ならできるかもしれない。お茶が飲みたくなるようなお菓子をつくれば、結果として、お茶の販売促進にもつながると考えたんです。

ただ、それでも私たちにとっては大変な挑戦です。売り物になるようなお菓子なんて、誰もつくった経験がありませんでしょう。お客様に満足していただけるようなお菓子ができるのか、本当に不安でした。しかも、お菓子だけでご満足いただいたらダメなんです。「おいしかった」と手を合わせて終わるのではなく、召し上がるうちにお茶が恋しくなるようなお菓子でないといけません。プリンにたどり着くまでですら、ずいぶん時間がかかりました。

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山中社長は、高知市の北西に位置する池川町(現仁淀川町)に、5人きょうだいの末子として生まれた。地元の中学校から、高知市の私立高知高校に進学。卒業後、同市内で薬局に勤務したのち、20歳のときに帰郷した。間もなく、父が地元の農協で専務を務めていた縁もあって、山中社長も農協(現JAコスモス)に就職した。

22歳の年、製茶農家の2代目である山中忠一氏と結婚。25歳で長女に恵まれ、27歳のときに次女を出産した。結婚後も勤務を続けたため、山中社長が農作業に直接、従事することはほとんどなかったが、仕事と育児の両立にのみ努めればよいというわけでもなかった。当時は手摘みで、二町五反(およそ2万5000平方メートル)ほどの茶畑をもつ山中家では、繁忙期になると20~30人の人夫が茶摘みを行なっていたという。その時期になると、マイクロバスを運転して朝夕、人夫を送迎するのも、彼らの弁当を整えるのも、農家の嫁の重要な仕事であった。

一方、農協では主に金融関係の業務を担当し、48歳にして女性初の課長に昇進。60歳で定年を迎えるまでの40年間を農協一筋に勤め上げた。資金の流れを理解し、「数字」を読む目を養い、さらに管理職を経験したことが、山中社長にとって貴重な財産となった。

◇    ◇    ◇

毎月1回くらい、役場の調理室に主婦たちが集まって、お菓子の試作を始めました。たしか、最初はお茶のようかんをつくったように思います。

試食してみると、おいしいんですよ。でも、単においしいだけなんです。特徴がない。誰かが「お茶の花を入れたらどうやろう」と言い出して、ようかんに乾燥させたお茶の花を浮かべてみたりもしましたが、そんな小手先の工夫では、肝心の土佐茶の味わいをお伝えすることはできません。お団子もつくりましたけれど、私たちが見ても、到底、売れるとは思えませんでした。

その後、役場に相談して商品開発の専門家をご紹介いただき、いろいろとアドバイスをいただくことになりました。さすがは専門家ですね。試作するお菓子の幅が広がって、ケーキや焼き菓子、そしてプリンもつくりました。でも、どれもそれなりにおいしいんですが、決め手に欠ける。「そろそろ核になる商品を決めよう」ということになって、アンケートを実施しました。試作品を東京に持って行って、20代から60代の女性に召し上がっていただいたんです。結果、好評だったのがプリンでした。

その後もまだまだ道のりは遠くて、プリンを主力商品に決めてから『茶畑プリン』が完成するまで、結局、1年以上もかかったでしょうか。容器の形状やらデザインやら、もちろん商品名もパッケージも、決めないといけないことは山ほどあります。専門家のアドバイスをいただくなかで、商品には「コンセプト」が大切だと教えていただいているんですが、農家の主婦ばかりでしょう。「コンセプトって何?」という状態ですから、そのころの私たちの状況は、だいたいご想像いただけると思います(笑)。

創業メンバー全員が取締役として責任を負う

なかでも難しかったのは、やはり味ですね。生クリームを使いますので、お茶のさわやかさが消えてしまうんです。香りも負けてしまう。お菓子づくりのプロにご指導をいただきながら、何回も何回もつくりなおして、最終的には「かぶせ茶」を使うことで、どうにか解決できました。これは茶園を幕で覆って、直射日光を遮って育てますから、玉露のようなうま味が特徴的なお茶です。

それと、味の決め手になったのは「地蜜」ですね。地元で採れる、素朴な味わいの蜂蜜です。味がようやく決まったとき、みんなで声を上げて喜んだのをいまでもよく覚えています。

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71歳を筆頭とする山中社長たち5名の主婦の平均年齢は、66歳。その挑戦は、当然ながら、夫や子、孫たちの親身なバックアップに支えられてきた。

とはいえ、経営の主体はあくまでも主婦であり、製茶農家の経営まで危機に陥れるような失敗は、絶対に許されない。その決意を込めて、全員が取締役として販売や品質管理など担当業務を分担し、責任を負う体制を創業時に取り決めたという。

現在、『茶畑プリン』の生産量は、1日に300個程度。1つひとつ丁寧につくられる『茶畑プリン』を求めて「工房Cafe」を訪れる観光客も多く、団体客が集中する週末や休日には、1日に200人もの客が来店することもある。

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もともと、この店舗は居酒屋だった物件で、5、6人も入ると一杯になるほど小さく、また高知市内からクルマで1時間半もかかる不便な場所です。でも、仁淀川がすぐそばなんです。日本一ともいわれる清流ですから、店の中からでも川底が見えます。この川のそばなら、私たちでもやっていけるような気がしたんですね。オープンが決まると、私たち全員でペンキを塗って、真っ白な建物に変えてしまいました。

実は、もう50年以上も前、私はこの店の目の前で川遊びをしていたんです。自宅は山の中腹にあって、ここからもよく見えます。

いまでも、朝、窓を開けたときに朝露がきらきら見えますとね、思うんです、「ああ、今日もおいしいお茶ができゆう」って。自分が生まれ育った環境のなかで、大好きなお茶の成長を実感しながら新しい仕事に挑戦できるなんて、これ以上の幸福はないと思います。

しかも、ありがたいことに、わざわざ遠くから来てくださるお客様がいます。ですから、期待して来てくださるお客様のことを思うと、申し訳なくて、なかなか休めないんです(笑)。いまのところ、不定休ということにしています。

まだまだ不慣れなこともあって、みなさんにご迷惑もおかけしますが、お客様の喜ぶ顔ほど励みになるものはありません。一人でも多くの方に喜んでいただけるよう、土佐茶のおいしさをお伝えしていきたいと思います。

月刊「ニュートップL.」 2013年9月号
編集部


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