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最新設備とクラフトマンシップの融合で下請からの脱却に成功する(日本伸縮管株式会社・社長 岩本泰一氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


両親と弟、職人三名、営業部員ゼロ・・・。
典型的な下請の町工場から研究開発型企業への転身を果たした日本伸縮管の岩本社長は、どのようにして改革を成功させたのか。

上下水処理施設や発電設備といった環境プラントをはじめ、製鉄、化学など各種プラントには多くのパイプラインが張り巡らされている。そのジョイント部分に用いられるのが伸縮管継手で、配管の熱膨張や振動を吸収する安全装置としての役割を担っている。日本伸縮管は、その受注生産に特化した設計・製作を行なう。

1973年の創業から長い間、同社は売上の8割以上を2社に依存する典型的な下請の町工場だった。だが、2000年に経営を継いだ岩本泰一社長によって下請からの脱却に成功。旧財閥系企業を含む約400社に取引を広げる一方、最先端の検査・測定装置を導入してベローズ(蛇腹構造の伸縮管)の疲労解析や腐蝕対策といった研究開発も進めている。

それほどに販路を拡大させながら、同社には営業部員が1人もいなかったという。現在でも、営業技術部に2名が配属されているだけである。

◇    ◇    ◇

もともと職人3名と両親の5名で細々と続けてきた町工場に、私と弟が加わっただけで、営業に人手が割けるほどの余裕がなかったんです。そこで、営業部員の代わりが務まるような「捨てられないカタログ」をつくろうと考えました。

汎用品ならともかく、私どもは完全な受注生産ですから、本来、技術力さえ伝われば薄いカタログでも十分なんです。でも、お客様にとって伸縮管はあくまでプラントの一部品です。他にも配管パーツはたくさんあって、それらの部品ごとにカタログをいくつも取り揃えるとなると、煩雑だろうと推測しました。それならば、製品群を網羅して、詳細な技術資料としての要素も加味した丁寧で重厚なカタログをつくれば、選択していただけるのではないかと思ったんです。

思い立ってから、同業者のカタログをできる限り集めて吟味を重ねました。そうして完成したカタログは全91ページで、調べた限り最も分厚かったカタログの倍ほどあります。1冊あたり約2,200円もかかりました。

リスクをおかして工場の移転を決断する

カタログづくりと並行して、力を入れたのがメディア戦略でした。といっても、町工場にお金なんてありませんから、ほとんど決死の覚悟の1点集中投資です。大手企業の設計技術者に向けた業界誌と資材担当者なら必ず読むといわれるくらい訴求力のある業界誌に広告を出稿し続けて、社名をアピールしました。

でも、「岩本鉄工」という社名では何をつくる会社なのか、よくわからない。もっとストレートに私どもの特徴が伝わらないといけません。そこで、社長就任と同時に社名も改称しました。これはSEO(検索エンジン最適化)対策でもあって、いまでも「伸縮管」というキーワードで検索すると、私どものホームページがトップに表示されます。

実態は家族経営の町工場なんですが、社名だけは立派ですから、業界誌の広告を見てお問い合わせをいただくようになりました。ここで少し工夫したのは、分厚いカタログとともに、見積書の段階からCADで製図した詳細図面をお送りしたことです。いまでは当たり前になりましたが、そのころはまだCADを使える人が少なかったこともあって、見積書には手書きの略図を用いるのが業界の慣習だったんですね。たまたま私が前職でCADに慣れていたものですから、出し惜しみせず、正式な図面をお送りしたことで、仕事ぶりが丁寧だと評価していただけたようでした。

ただし、それでも技術力がともなっていなければ受注にはつながらないわけですから、下請から脱却できた最大の要因はベテランが培ってきたクラフトマンシップだったと思います。手前味噌ではありますが、業界でも有数といえる技術はいまでもいくつかあると自負しています。

◇    ◇    ◇

岩本社長は1960年、東大阪市に生まれた。83年、関西学院大学経済学部を卒業。同年、就職した専門商社で機械部に配属され、CAD/CAMシステムを学ぶ。当初は家業を継ぐという明確な意思はなかったが、創業者である父(現会長)の要望もあって、89年、現常務の弟とともに岩本鉄工に入社した。

伸縮管については門外漢だった岩本社長は弟とともに職人の仕事を身につけるべく日々、溶接と旋盤、グラインダー作業に取り組んだ。やがて、売上の安定と拡大をめざして町工場からの脱却を志向し始めるが、そのことでベテラン職人との間に軋轢が生じ、父との葛藤も招く。96年、周囲の大反対を押し切って門真(かどま)市から四条畷(しじょうなわて)市へ工場を移転。敷地面積は150坪から倍に広がったが、土台をコンクリートで固めた主力成形機の移転は不可能で、新たに成形機を自作しなければならない乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負となった。しかし、結果としてこの決断がのちの飛躍につながった。

◇    ◇    ◇

専門商社での6年間、私はセールスエンジニアのような立場で1000軒近い工場を見てきました。それだけ見ていると、業績のよい工場には共通点があることに気づきます。一言でいえば、整理整頓ができているんです。ところが、家業に戻ってみると昔ながらの雑然とした工場で、いわゆる「3K」そのものです。まずはそこから変えないと、いつまで経っても下請から脱却することはできないと感じました。

とはいうものの、昔気質の親父やベテラン職人には、どんな職場環境でもモノづくりに徹するのが本物の職人だというプライドがある。ベテラン職人とは軋轢からのスタートで、「おまえくらいなら食わしてやるから、黙っとけ!」と怒鳴られたこともありました(笑)。

そういう状況ですから、私が何を言っても誰も耳を貸しません。実際、私自身も自分の言葉に説得力がないのはわかっていましたから、とにかく職人として認めてもらうしかないと思いました。もちろん、私が彼らを技術で上回るのは難しいでしょうけれど、勝てないまでも、せめてがっぷり四つに組んで一歩も退かないという気概を見せる必要がある。何をするにもそれができてからだと思って、当初はひたすら職人としての腕を磨くことに努めました。

環境への配慮が差別化につながる

創業の地を離れて四条畷市へ移転したのは入社7年後のことですが、いま思えば若気の至りといいますか、なぜ思い切れたのか自分でも不思議なほどです。でも、そうでもしない限り、いくら整理整頓を心掛けてみても根本的には何も変わらないと思ったんです。通い慣れた工場で、使い慣れた機械を使って仕事をしていると、心理的にも切り替わりませんよね。再出発にふさわしい場所を求めて、めぼしい地域を探し歩きました。

ようやく探し当てたのが四条畷の300坪で、移転についてはすべて私が責任をもって取り組むという約束で親父を説得したところ、渋々、認めてくれました。ところが、ベテラン職人も含めて「やれるもんなら、やってみい」といった雰囲気でした。創業以来、私どもの稼ぎ頭であった成形機を廃棄しなければならないのですから、それも当然かもしれません。

古い機械なんですが、職人が自作した成形機だけに使い勝手がよく、それが稼働しなければ売上の大部分が失われるという主力成形機でした。しかし、図面は残っていませんし、同じ部品も入手できません。私は、それに代わる成形機を新たに自作するしかなかったわけです。

それから試行錯誤を重ね、文字通り寝食を忘れて取り組みました。おかげで胃に穴が開いてしまい、3日間ほどホットカルピスしか喉を通りませんでした(笑)。苦労の甲斐あって、どうにか完成した成形機はおかげさまでその後、私どもの稼ぎ頭になっています。

◇    ◇    ◇

工場の移転を成功させ、新たな成形機も得た日本伸縮管は、経営の自立に向けた準備も整い、その4年後の社長交代と社名変更を契機として下請からの脱却を成し遂げた。その後、再度の移転を経て07年、現在の工場に落ち着いた。

関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)でも異彩を放つ外観は、一見して工場とも思えないが、重量クレーンを十数機装備する。建屋は階段状の5層構造で、オフィスや試作・実験エリアをもつ1層目のラボ棟以外、2層目から5層目はすべて製造エリアとなっている。敷地面積は3300坪。ビオトープには様々な水生植物や樹林、昆虫、小鳥が生息し、緑化された建屋屋上は知能化制御灌水システムで土中の湿度などが管理され、菜園で栽培される野菜や果物は社員に分配されるなど、福利厚生にも役立っている。

◇    ◇    ◇

私どもの業界では、「よいモノ」をつくるくらいのことでは差別化できません。語弊があるかもしれませんが、製品の品質でお客様のご期待に応えるのは当たり前なんです。むしろ、今後ますます問われるようになるのは、それがどういう工場から生み出されるか。つまり、環境への配慮が差別化につながると考えてきました。

いくら高い技術があっても、粉塵をまき散らし騒音で周辺にご迷惑をかけているようでは、お客様に認めていただけないんですね。そういう意味で、現在の工場は社員満足だけでなく、私どもの製品に対する評価を高めることにも役立つと思います。

ただ、当然ながら、そうした最新の設備が生きるのはクラフトマンシップと融合するからで、そのいずれが欠けても今後のモノづくりはうまくいかないのではないでしょうか。実は、私どもには60代の社員が4名います。私が入社したとき、生意気な私を「おい、おまえ」とあしらったベテラン職人が、60代半ばになったいまも働いてくれているんです(笑)。

彼らの存在がいかに大きかったことか。手袋をはめるときに見せる気合いのこもった顔つきとか、機械を動かしているときの息づかいとか、そういう何気ないところに表われる職人のプライドが後輩たちに与えた影響は、何ものにも代え難い。若い社員が増えたいまこそ、そういう気概を大切に受け継いでいきたいと思います。

月刊「ニュートップL.」 2011年6月号
編集部


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