自動たん吸引器を普及させ、患者や介護者の負担を減らしたい(株式会社徳永装器研究所・社長 徳永修一氏)
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筋力が衰えた難病患者や高齢者のなかには、自力でたんを除去できず、24時間介護を必要とする人がいる。
しかし、徳永装器研究所の徳永社長が開発した世界初の自動吸引器によって、患者本人や介護者の負担は大幅に軽減された。
徳永社長が、その開発過程を振り返る。
厚生労働省により特定疾患(難病)に指定されているALS(筋萎縮性側索硬化症)の国内患者数は、現在、9000人ほどと推定されている(日本ALS協会集計データ参照)。
ALSとは、筋肉の萎縮と筋力の低下をもたらす進行性の病気で、いまだ原因は解明されておらず、有効な治療法もない。四肢の麻痺や嚥下障害、呼吸困難などの病状が進むと、24時間態勢の介護が必要になる。筋力が低下し、人工呼吸器を装着した患者は、自力でたんを除去することができないからだ。窒息事故を防ぐには、1、2時間ごとにたんを吸引しなければならず、従来、それが介護者の大きな負担となってきた。

だが、徳永装器研究所の徳永修一社長が完成させたたん吸引器「アモレ SU1」は、患者と介護者にとって大きな福音となった。自動吸引システムにより24時間介護の必要がなくなり、介護者の負担は大幅に軽減。独自の少流量吸引技術によって、吸引時の患者の苦痛もほぼ解消された。2011年の発売以降、累計販売台数は約500台に達し、いまも毎月十数台のペースで出荷されている。
医師のアドバイスと多くの患者の協力を得て、およそ8年間、徳永社長は試行錯誤を繰り返した。やがて、完成品が医療機器として認可を受け、市販化にこぎ着けたとき、開発に着手してから11年が経っていた。
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ALSの診療と研究に長年、取り組んでこられた先生から初めてお話をいただいたとき、実は辞退したんです。人命にかかわる重大なテーマですから、あまりに荷が重すぎます。ならば、せめて試作機だけでも挑戦してみないかと勧められて、なんとかやってみようという気になりました。でも、こんなに大変だとは、想像以上でした(笑)。
そもそも、私がALSを身近な問題ととして考えるようになったのは、大分高専時代の友人と再会したとき、彼のお兄さんがALSを患っていると聞いたのがきっかけでした。1995年ごろだったと思います。
当時、私は会社勤めの身で、ALSがどういう病気なのか、詳しくは知りませんでした。でも、以前から福祉関係の仕事がしたいという夢があって、私でも何か役に立つことができればいいなと思っていたんですね。その友人を通じて日本ALS協会という存在を知り、やがてその大分県支部にボランティアで参加するようになりました。ALSの深刻さを認識できたのも、在宅で介護するご家族の苦労を知ったのも、この活動を通じて、患者さんや介護者の方々とのご縁ができたからです。そして、病院の先生方とも親しくおつき合いをさせていただくようになりました。
その後、独立して、まずは個人事業で医療・福祉関係の製品づくりを始めました。たん吸引器の試作機に取り組んだのは2000年で、最初の試作機ができたのは、その半年後のことです。先生方のアドバイスはもちろん、日本ALS協会の研究基金から支援をいただいたおかげでもありました。
一度は断念したものの再び起業に挑戦する
ありがたいことに、試作機は患者さんに好評でした。それまでは夜中に何回も介護者の手を煩わずらわせなければいけなかったわけですから、心苦しかったんだろうと思います。先生も喜んで、自身のホームページに試作機を紹介してくださったんです。すると、それを見た厚生労働省の担当者が興味を示してくださって、助成金を支給していただくことになりました。厚生労働省では、難病患者さんの吸引作業について、どのように対処すべきか悩んでいたんですね。
というのも、吸引作業は医療行為ですから、医師や看護師でなければできません。従来の吸引器は流量が大きいため、患者さんの気管壁を傷つける恐れがあったんです。やや語弊はありますが、掃除機をのどに押し当てるようなものと想像していただけば、その危険がわかりやすいかもしれません。
ところが、在宅医療の場合、実際に吸引作業を行なうのは、ご家族や介護ヘルパーさんです。それを禁じてしまうと、難病患者さんの在宅療養は、現実的に成り立たなくなってしまう。自動吸引器の完成は、そうした問題の解消にも役立つと期待していただいたわけです。
ただ、好評をいただいたといっても、試作機はあくまで試作機です。乗り越えなければいけない課題は、まだまだ山のようにありました。

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1950年、徳永社長は大分県宇佐市のサラリーマン家庭に生まれた。大分工業高等専門学校で機械工学を学び、71年、同校を卒業して、日立製作所に入社した。配属された柳井工場(山口県)では家庭用空調機などの設計に従事。その後、中条工場(新潟県)に転勤すると、紙幣鑑別機やATM(現金自動預払機)の設計を担当した。
一男一女に恵まれた家庭は幸福で、大企業での勤務も充実していたが、ある休日、書店で出会った一冊の本に触発され、そのまま定年を迎える人生に疑問を抱いた。『街の小さな木工所から』と題された本には、障碍者が使う道具を製作する工房の様子が描かれていた。自分とは別世界に生きる同世代の著者への共感が、福祉に関係する仕事への興味と帰郷を願う潜在的な気持ちを目覚めさせた。
85年、退職して家族とともに宇佐市に戻った徳永社長は、夢の実現を模索した。だが、福祉関係の事業所の現実を知れば知るほど、それが容易でないことを痛感。福祉への道は断念せざるを得ず、翌年、情報誌の求人に応募して、日本抵抗器大分製作所に入社。電子機器やデバイスの技術管理業務を担当した。
その後、生来の謹直さと前職で培ったノウハウを活かして実績を重ね、生産管理部長に昇進したが、福祉への志は失われてはいなかった。95年、日本ALS協会への参加を契機に再挑戦を決意すると、間もなく退職して独立。97年、徳永装器研究所を創業した。以前とは異なり、高齢者介護が注目されるなど、福祉の分野に事業としての将来性が見出せる時代に変わっていたことも、独立を決意する要因となった。
だが、当初は厳しい状況が続いた。創業までは失業保険で食いつなぎ、その後も妻のわずかな収入でどうにか生活する日々だった。事業を始めてからは、介護ベッドや車いすなどの販売で売上を確保する一方、各種助成金を得て、医師や患者の要望を反映した製品の開発に取り組んだ。そうして開発した製品には、眉の動きで操作できる意思伝達装置や患者がベッドから離れたことを感知する離床センサーなど、徳永社長のセンシング技術がおおいに発揮されている。
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吸引器の開発において最も難しかったのは、相反する要素を同時に成り立たせなければいけないことでした。
たんを確実に吸引するには、それなりに力強い吸引力が必要です。一方、患者さんの気管壁を傷つけたり、呼吸を阻害しないよう、静かにやさしく吸引しなければいけません。難問でした。
最初の試作機は、それまで介護者が行なっていた作業を機械化しただけで、たんをセンサーで感知して吸引するという簡単なしくみです。これでもずいぶんな進歩と言えなくもないのですが、残念ながら、汎用性がない。その後、改良を重ねましたが、うまくいかず、根本的な構造原理から考え直しました。
結局、完成するまで、そうして機械の発想そのものから出直す作業を4回ほど繰り返すことになります。当然、何回もやめようと思いました。意見が対立する先生と、何か月もの間、口をきかなくなることもありました(笑)。やがて、内心、半ばあきらめかけていたころ、意外な突破口が見つかったんです。
たとえ失敗しても無形の資産になる
あるとき、気管にチューブを深く差し入れなくても吸引できたんですね。先生方も私も、なぜ吸引できたのか、わかりませんでした。でも、ふと気づいたんです。チューブを装着した患者さんと接していると、たまにゴロゴロとたんが絡む音がする。吸引していないのに、たんが絡むということは、たんが勝手に気管のなかを上がってきて、体外に排出されようとしているわけです。
患者さんの呼吸によって、たんは動いていたんです。そして、繊毛運動という身体の自浄システムによって、異物は自然と排出される。吸引器が強引に吸い取ろうとしなくても、自浄作用を利用すれば、やさしく静かに吸引できることがわかったんです。先生方にとってさえ、それは盲点だったようです。でも、気づいてみれば当然の原理で、それに気づいたことが試行錯誤に終止符を打つ転換点になりました。
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市販された吸引器は、定価16万円。実績のない装置の導入に慎重な医療機関も少なくないが、医師や患者を通じて全国に評判が広まり始めている。また、続いて徳永社長は、災害発生時を想定して、電力を使用しない足踏み式の吸引器も開発。ことし4月から発売を開始した。

自動吸引器の研究開発で、05年、同社は大分県ビジネスグランプリ最優秀賞を受賞。また、九州ニュービジネス大賞優秀賞や東京ビジネスサミット準賞も受賞した。
現在、ALS患者だけでなく、たん吸引を必要とする高齢者や障碍者は、全国に5万人以上と推定されている。
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自動吸引器の他にも、これまでいろいろな製品を開発してきましたが、なかにはニーズを読み誤って、製品として日の目を見なかったものもあります。
たとえば、患者さんのリハビリを懸命に行なう理学療法士さんを見ていて、リハビリの回数を自動で数えるカウンターを試作したことがありました。患者さんの足や腕を動かしていると、回数がわからなくなって困っている姿をよく見かけたんですね。数えなくてもよければ、リハビリに集中することができます。
でも、試作機をつくって何人かに使ってもらったんですが、反応はほとんどありませんでした。おそらく、カウンターがあれば便利かもしれないけれど、なくても別に困りはしない、という程度だったのでしょうね。
失敗と言えば失敗ですが、私は必ずしも無駄ではなかったと思います。試作機をつくる過程そのものが、無形の資産になったからです。100の仕事のうち、5程度しかモノにならなかったとします。では、残りの95は無駄かと言えば、そうではない。それに取り組んだ経験は、後で必ず何かの役に立つからです。自動吸引器も、そうした無形の資産の蓄積のなかから生まれたに違いありません。
振り返ってみると、自分の知識やノウハウが社会の役に立つかもしれないという実感ほど、研究開発への強い動機づけはなかったように思います。たしかに、結果が出ないうちは不安で、力不足を痛感することばかりです。それでも途中で投げ出さずに済んだのは、実際に患者さんやご家族に喜んでいただいた経験が支えになっていたからなんですね。
難しいことに挑戦して、それをなし遂げたいというチャレンジ精神も必要です。でも、それだけでは苦しい時期を乗り越えることはできない。誰かに必要とされているという充実感が、様々な工夫につながるのだと思います。

月刊「ニュートップL.」 2013年7月号
編集部
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