伝統的な製法で品質にこだわり納豆を大阪の食文化にしたい(小金屋食品株式会社・社長 吉田恵美子氏)
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「納豆不毛の地」とされる大阪で、50年以上にわたってこだわりの納豆をつくり続けてきた小金屋食品。
従業員は、わずかに5名。その全員が女性という体制ながら、天然の納豆菌でつくる口あたりのよい納豆を開発し、大阪の消費者から支持されている。
吉田恵美子社長が、こだわりの商品開発と顧客獲得に向けた工夫を語る。
総務省の統計調査をもとにした都市別ランキングによると、「納豆」への1世帯あたりの年間支出金額が最も多いのは福島市(5528円)で、以下、盛岡市、水戸市と、上位には東日本の都市が並ぶ。
一方、最下位の大阪市(1793円)は、福島市の3分の1にも満たない。納豆にはなじみが薄いとされる西日本の都市は、総じて支出金額が少なく、近畿以西の都市で全国平均(3313円)を上回るのは、熊本市と鹿児島市のみである(東京都区部、道府県庁所在市、政令指定都市の51市が対象。2010年から12年の平均額)。納豆は「東高西低」が顕著な食品と言えるが、小金屋食品がつくる「大阪発」の本格的な商品が地元の消費者の支持を得て、いま注目されている。
同社は、大阪市に隣接する大東市で50年以上、こだわりの納豆をつくり続けてきた。だが、不況の影響もあって業績が低迷するなか、03年に創業者の小出金司氏が急逝。存続の危機に陥ったが、急遽、長女である吉田恵美子社長が経営に携わるようになり、07年、吉田社長が正式に2代目を継いだ。
業績回復のためには看板商品づくりが不可欠と感じていた吉田社長は、就任して間もなく、稲わらに自生する天然の納豆菌だけでつくる本格納豆の開発を決意した。だが、亡父のノウハウは伝承されておらず、開発は難航する。通常業務のかたわら研究を重ね、商品化に成功したのは1年後だった。大阪生まれの本格納豆との意味を込め、09年、『なにわら納豆』と名づけて発売した。
『なにわら納豆』は自然発酵のため、一般的な納豆と比較して「糸引き」がやや弱い。だが、大豆本来の薫りにわらの芳香が加わって、納豆特有のにおいはほとんど感じられない。1本(90グラム)あたり315円と高価だが、「納豆嫌い」な西日本の消費者にも受け入れられやすい点や、同社が大阪の納豆メーカーで、吉田社長と4名の従業員がすべて主婦という女性だけの商品づくりも地元のマスコミから注目され、その評判は口コミでも徐々に広がっていった。
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大阪はもともと納豆を盛んに食べる習慣がなくて、あの独特のにおいが苦手やと、敬遠する人も少なくありません。でも、これまで納豆不毛の地とされてきた大阪だからこそ、チャンスも大きい。「食い倒れ」の街ですから、本当においしいものは受け入れられるはずなんですね。みなさん舌が肥えていて、味については本当に厳しい街だと思います。
それだけに、納豆本来の味を追求すれば、認めていただけるに違いないと感じました。そして、納豆を敬遠してきた人のために少し工夫を加えれば、大阪らしい納豆ができるのではないか。そう考えて着目したのが、亡くなった父が昔、つくっていたという天然の納豆菌で発酵させる納豆でした。
ところが、実際に昔ながらの製法でつくり始めてみると、想像以上に難しいことがわかりました。なかなか糸を引いてくれないんです。
全スタッフで生み出した天然の納豆菌でつくる納豆
大量生産に適した一般的な製法では、純粋培養した納豆菌を噴霧して、大豆を発酵させます。これは、いわば納豆をつくるために培養された納豆菌ですから、扱いやすいんですね。温度や湿度など、だいたいの条件がそろえば、それなりの納豆はできるんです。
一方、稲わらに自生する天然の納豆菌は繊細で、培養した納豆菌の場合と同じようにつくっても、なかなか納豆になってくれません。大豆の炊き加減や発酵室(はっこうむろ)の温度、湿度、発酵時間など、条件を様々に変えて試行錯誤を繰り返しました。でも、いくらやっても糸さえ引かない。失敗のたび、納豆釜を担当する母たちと顔を見合わせて、「なんでやろなあ」と首を傾げてばかりいました。
そのうち、数か月が過ぎて、ようやく糸を引く納豆ができるようになったんですが、こんどは別の問題に悩まされました。品質検査をしてみると、大腸菌が陽性と判定されてしまうんです。納豆菌を生かしつつ、それ以外は殺菌する製法を研究しなければならず、再び試行錯誤を繰り返すようになりました。
その年は、大晦日も研究を続けていた覚えがあります。私どものスタッフは全員、女性です。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたけれど、この小さな会社が生き延びることができるかどうかの瀬戸際でしたから、ずいぶん無理を言ったと思います。でも、家事や子育てに忙しいなかで、みんな積極的に協力してくれました。全員で力を合わせることがなかったら、『なにわら納豆』は完成できなかったと思います。
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吉田社長は3人姉妹の長女で、物心がつくころ、すでに父は念願の自社工場を建て、母とともに連日、早朝から深夜まで納豆づくりに没頭していた。
創業者の金司氏は、1936(昭和11)年に山形県米沢市で生まれ、16歳の年、単身、大阪に出て、米沢納豆という納豆メーカーの工場で働き始めた。61年、結婚を機に独立したものの、生産設備を整える余裕がなく、自宅でわらを梳き、炊いた大豆を包んで、温度計を手にこたつで納豆をつくったという。地道に顧客を増やし、67年、待望の工場を門真市に建設した。
しかし、5年後、工場が火災に見舞われて全焼。金司氏は修業時代の先輩の工場に間借りして事業を再開し、早くも翌年には、大東市に現在の本社工場を再建した。そして、工場の2階で家族5人の新生活が始まった。
82年、地元の商業高校を卒業した吉田社長は、文具メーカーのサクラクレパスに入社。事務職として6年間、勤務したのち、結婚にともない退職した。その後、専業主婦として3人の子供を育て、子育てがひと段落すると、94年ごろからパート勤務を始め、近隣のスーパーや不動産会社などで働いた。
転機となったのは、03年、体調を崩した金司氏にがんが発見されたことだった。闘病生活を余儀なくされた父に代わり、小金屋食品の経営を支えるべく、吉田社長は専務取締役に就任。経理を担当した。しかし、金司氏の病勢はすでに末期に至って、同年末、67歳で鬼籍の人となった。
本人が告知を希望しなかったこともあり、金司氏は最期まで現場復帰の意欲を失わなかったが、結果として、それが後継者の育成と技術の伝承を阻むことになる。納豆釜の扱いは母が口伝されたものの、伝統的な製法に関するノウハウは伝えられることがなかった。
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小さいころは、納豆屋の娘といじめられもしましたし、両親の大変さも見てきたので、会社を継ぐなんて考えたこともありませんでした。亡くなった父も、古い考え方の人でしたから、娘に任せようとは思わなかったはずです。でも、私が跡を継がなければ会社をたたむしかないという状況のなかで、社長を継ごうと決意しました。父がつくった会社を潰したくない一心でした。
とはいえ、思い出したくないくらい悲惨な状況でしたね(笑)。父あっての小金屋食品で、私は何も教わっていませんでしたから、納豆についても経営についても、素人同然です。納豆づくりに必要な用語も業界の慣習もちんぷんかんぷんで、基本中の基本から勉強しないといけません。セミナーや異業種交流会にも積極的に参加して、少しでも見聞を広げたいと必死でした。
その一方で、業績はもう大変な状況です。お恥ずかしい話ですが、とにかくお金がない。水道料金が無事に引き落とされるかと心配するほどの状態で、会社の預金残高を見るのが怖くて仕方ありませんでした。父の代から累積した赤字も大きく、私が継いだ07年当時、年商の倍くらいはあったと思います。
ただ、そのころの私にとって最もつらかったのは、お客様に商品を知られていないことの惨めさでした。
工場で直売会を開催し、直接、消費者に訴えかける
父が品質に妥協しなかった姿を間近に見てきましたから、その信用を失ってはいけないと、母もスタッフも真剣に、丁寧につくってくれた商品です。でも、思うように売れなくて、せっかくの商品が在庫として眠っている状況が続きました。すると、母が小売店さんや問屋さんなど、お取引いただいている会社に「いかがですか」「お願いします」って、電話をかけるんです。
その様子が、娘の私から見ると、どうしようもなく惨めなんですね。味わってさえいただけば、もっとお客様に喜ばれてもよいはずなのに、お客様に手に取っていただく機会が少ないばかりに、母が卑屈に見えるほどの低姿勢でお願いを繰り返さなければならない。そういう姿を見るたび、非力な自分が情けなくて、涙を抑えられませんでした。
母がそういうお願いをせずに済む商品をつくらなければいけない。お慈悲にすがるようにして扱っていただくのではなく、お客様から「欲しい」と望まれる商品を一刻も早くつくらなければいけないと、心底から思いました。そういう悔しさを経験したから、今日までどうにかやってこれたような気がしています。
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社長就任後、吉田社長は新商品の開発と並行して、販路の拡大にも積極的に努めた。
まず、近隣住民からの支持獲得を狙って、毎月1回、工場の敷地内で直売会を開催。容器が傷ついたりした「ワケあり」商品の値引き販売などを目玉に、自作のチラシを自転車でポスティングして回り、初回には100人を集めた。以来、直売会は最大で250人ほどを集客するイベントとして定着。やがて、常設の直売所へ発展し、09年7月10日、「納豆の日」を期して工場の一部に「納豆庵 こがね屋」をオープンさせた。
直売所の盛況や『なにわら納豆』が話題となり、このころからマスコミの取材依頼や各種イベント、百貨店の催事への出店依頼が舞い込むようになった。
そうした反響もあり、同年秋には農林水産省の支援によって始まった都市住民参加型市場「マルシェ・ジャポン」から要請され、大阪・淀屋橋で毎週、開催される青空市場「大阪マルシェ」への出店も実現。初回は300食を完売する人気で、同社の納豆は大阪での評価を高めていった。11年からは、大阪府公認の通販サイト「大阪ミュージアムショップ」へも出品している。
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近ごろは、ネット通販が直売売上の15%程度にまで増えてきましたが、いまも売上の大半は百貨店さんやスーパーさんです。でも、直売会などを通じて、実際に納豆を召し上がるお客様との接点を増やしてきたことは、私どもにとって大きな意味があったと思います。私どもの味を気軽に知っていただく機会になっただけでなく、お客様の声に多くのヒントをいただいたからです。たとえば、納豆に付属するタレは、かつおだしを強めたオリジナルの味に仕上がっていますが、これはお客様の好みに合わせてアレンジした関西風のタレなんです。また、小食タイプの商品を開発したのも、お客様の声をヒントに、独り暮らしのお年寄りでも残さず召し上がっていただけるよう改善したからなんです。いわゆるBtoCにも注力することで、主婦の目線を活かすことができたのではないかと思います。
いまでも大阪の納豆メーカーといえばめずらしい存在で、やはり本場は東日本です。私どもは規模も零細で、スタッフも女性ばかりですから、全国に展開する大手メーカーと同じ土俵で闘っても、勝ち目はありません。
でも、本場ではないからこそ、できる味もあると思うんです。同様に、少数精鋭だからこそ、女性だからこそ、できる納豆づくりがあるはずなんですね。一見すれば弱みのようでも、工夫しだいでは、それが私どもの強みに変わる。そう信じて、いつか大阪の中心街に納豆の専門店を出店してみたいというのが、いまの私の夢です。
納豆が東日本だけの食文化ではなく、この食道楽の街に根づいた味でもあるということを多くの人に知っていただきたいと願っています。
月刊「ニュートップL.」 2013年6月号
編集部
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