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ケアシューズ「あゆみ」でお年寄りの歩行を助けたい(徳武産業株式会社・社長 十河 孝男氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


高齢者の足や歩き方を徹底的に分析し、ケアシューズという新たな市場を開拓してきた徳武産業の十河孝男社長。同社には、顧客から毎日、10通近い礼状が届けられる。十河社長が、開発の経緯と経営観を語る。

徳武産業の十河孝男社長は、妻のヒロ子副会長と開発した高齢者用ケアシューズ「あゆみ」で、既存のリハビリ靴や介護靴とは違う「ケアシューズ」という新たな市場を切り拓いてきた。1995年の発売当初こそ販売不振に苦戦したものの、口コミなどで徐々に支持が広がり、2003年には販売累計が100万足を突破。その後、サービスやアイテム数の充実によって加速度的に顧客が増え、昨年は約84万足を売り上げた。累計販売数も700万足に迫る。

高齢者が「あゆみ」を圧倒的に支持するのは、転倒を防ぐために細やかな配慮が施された機能的な商品力と、個別の多様なニーズを拾い上げる同社の柔軟な対応、そして業界の慣習を打ち破る販売方法にある。

開発にあたり、十河社長は高齢者の足の状態や歩き方を徹底的に調査した。2年間に及ぶ試行錯誤のなかで、夫人とともに訪ねた介護施設は30数か所、モニタリングした高齢者は500人以上に及ぶ。地面から2センチほど緩やかに反り返ったつま先や、かかとを支える堅めのカウンター(半円形の芯)、滑りにくい靴底など、「あゆみ」には高齢者の歩行を支える工夫が行き届いている。

また、顧客からの多様な要望に応えるべく、01年からパーツオーダーシステムを導入。病気や加齢によって左右の足の長さや大きさが変わってしまった顧客のため、靴底の厚みやかかとの深さ、ベルトの長さなどを自在にオーダーできる体制を整えた。ワイズ(靴幅)も、3Eから9Eまでは既製品で、オーダーでは11Eにも対応している。

さらに、コスト削減の徹底などによって、業界ではタブーとされてた片足のみの販売を実現。左右別サイズの販売も可能で、むくみや腫れによって左右のサイズが極端に違ってしまったり、片足のみ装具を着用する高齢者などに喜ばれている。

◇    ◇    ◇

きっかけは、老人介護施設を経営する友人からの相談でした。お年寄りが転ばないような靴をつくってくれ、と言うんですね。

年寄りの転倒は、寝たきりにつながりかねません。転倒事故をなくすため、彼は施設を建て替えてバリアフリーを実現したのですが、それでも施設内でつまずくお年寄りは減らない。そこで、あらためてその足もとをよく観察してみると、だいたい2つの原因がわかりました。

1つは、つま先から着地してしまうことです。健常者はまずかかとを着地させますが、筋力が衰えた高齢者は足が上がらず、つま先から着地する。ですから、わずかな起伏にも引っかかってしまうんですね。もう1つは、自分のスリッパを踏んでしまうこと。歩行中にバランスを崩して、スリッパのかかと部分を別の足で踏んでしまうわけです。

友人は、そういったお年寄りの事情に配慮した「転びにくい靴」がないかと、靴店をいくつも探し歩いたそうです。でも、見つからなかった。私が相談を受けたのは、その直後でした。

開発が難しいわりにニッチな市場ですから、大手が手を出さないのも、よくわかります。でも、それゆえに私は挑戦することにしました。そういう分野こそ、中小企業の出番です。使命感というと格好がよすぎますが、私どものような小さい会社にまで断わられてしまったら、友人もお手上げでしょう。そうして相談されたのも何かの縁だと思って引き受けたわけですが、お年寄りの足について調べれば調べるほど、何とかしてあげたいという気持ちが強まりました。とにかく、お年寄りが抱える悩みは想像以上に深刻なんです。

左右で足のサイズが違う程度はよくあるケースで、外反母趾やリウマチなどで足が変形してしまった方もいます。股関節の病気によって、足の長さが左右で大きく違う方もいる。でも、みなさん歩きたいんです。自分の足で歩いて、季節を感じたい。孫と遊んでやりたい。誰にも迷惑をかけず、自分の足でトイレに行きたい。私はそれまで、お年寄りがそんなに切実な悩みを抱えているとは、想像もしていませんでした。何としても開発しなければいけないと強く感じました。

加えて、私には自前の商品で勝負したいという年来の夢がありました。でも、田舎の零細企業ですから、体力がありません。新たな事業に挑むなら、その分野でトップになれるような商品でないとあぶない。そう考えていた私にとって、それはまさに社運を賭けるに値する意義ある挑戦だったんです。

菩提寺の住職に驕りを気づかされる

そのころの私どもは、旅行用スリッパとポーチ、ルームシューズが売上の三本柱でした。ただ、いわゆるOEMビジネスですから、経営は必ずしも安定していません。悔しい思いもしてきました。

たとえば、通販会社さんに新商品を提案しますね。サンプルを持っていって簡単なプレゼンテーションをするわけですが、評価していただくこともあれば、汚らわしい物でも見るような目で追い返されることもある。そういうときのつらさというのは、ちょっと言葉にはできません。

サンプルをつくるために会社に泊まり込んで、必死で知恵を絞っていた従業員の姿を見てきたわけです。その努力が報われず、希望を託した新商品が、お客様の評価をいただく場さえ得られずに退場させられてしまう。メーカーは、やはり自前の商品で、自前のビジネスで勝負すべきだという思いが、年々、強まっていました。

◇    ◇    ◇

十河社長は、1947年、香川県の農家に生まれた。長男だったが、農業の厳しい現実を目の当たりに育ち、安定した職業を志向するようになる。66年、地元の志度商業高校(現志度高校)を卒業すると、香川相互銀行(現香川銀行)に入行した。69年、徳武産業の創業者である徳武重利氏の長女と結婚。「堅実な職業の男性のもとへ」という義父母の意向もあったという。

転機が訪れたのは、結婚から1年半後のことだった。手袋製造会社を経営する夫人の叔父から、韓国に新設する縫製工場の工場長への就任を請われた。いつしか挑戦的な仕事に魅力を感じ始めていた十河社長は心を動かされたが、周囲は猛烈に反対する。だが、ただ一人、「やってみたら」と賛成してくれた夫人に背中を押され、十河社長は覚悟を決めた。71年、叔父の会社に転職し、夫人とともに渡韓。反日感情が底流する異文化のなかで滞在は4年に及んだが、3日に1日は徹夜するほどの猛烈な働きぶりで業績を拡大し、帰国時には従業員数が3倍以上に膨らんでいた。

その後、入れ替わりに渡韓した叔父に代わり、専務に就任した十河社長が同社の実質的なトップを務めたが、84年、義父から徳武産業の後継を懇望されたことが再び転機となる。悩んだ末、十河社長が承諾することを伝えると、義父はその20日後に心筋梗塞で倒れ、5日後に亡くなった。十河社長は、37歳で2代目を継いだ。

同社は、57年に綿手袋縫製工場として創業された。のち、スリッパの製造に転じ、74年から大手靴メーカーの協力工場としてバレーシューズ(学童用上履き)の製造を開始。安定的な縫製技術で堅実な経営を続け、十河社長の就任後、89年ごろからはポーチとルームシューズの製造を本格化させた。

◇    ◇    ◇

振り返ってみると、私がいままで経営者としてどうにかやってこれたのは、自分の驕りとかうぬぼれに気づく機会をいただいたからだと思います。先代の3回忌の法要を終えたときでした。思い切って、菩提寺のご住職に悩んでいることを話してみたんです。

義父の跡を継いでからの2年間、何をやってもうまくいきませんでした。お恥ずかしい話ですが、従業員とは険悪になるし、義母とも意見が対立する。当然、売上も伸びません。包み隠さず話しますと、ご住職も「実は、前からあんたに言おうか言うまいか迷ってたんやが・・・」とおっしゃる。私だけが悩んでいるようでいて、周囲のみなさんに心配をかけていたんですね。

「先代を追い越したいという気負いはわかるが、それでは先代と争っているのと同じや。それより、あんたがそうして先代と競えるだけの基盤があることに感謝すべきやないか。先代は、あんたがやりやすいようにと、命を削ってお膳立てをしてくれたんやから」

そう言われて、心から恥じ入るばかりでした。以来、気持ちを入れ替えて、生まれ変わったつもりで態度もあらためました。すると、ありがたいことに社内の雰囲気もだんだんなごやかに変わってきた。いま思えば、それでようやく「あゆみ」が誕生する地ならしができたのかもしれません。

気持ちを込めればモノに命が吹き込まれる

「あゆみ」シリーズには、すべての商品に「まごころはがき」と返信用のアンケートはがきが同封されている。

「まごころはがき」は従業員から購入者に宛てた感謝のはがきで、「あなた様のその一歩を足もとから優しくお守りし続けたいと思っています」など、従業員がそれぞれに考えた言葉とともに、所属部署、氏名まで、すべて手書きで記されている。

対して、顧客から徳武産業には毎年、2000~3000通の礼状が届く。これまでに届いた礼状の数は、軽く2万通を超える。また、商品に同封されたアンケートはがきの返信率も高く、商品への評価や要望が記された返信は、年間3万通以上に達する。

さらに、アンケートはがきの返信者には徳武産業から誕生日にメッセージカードとプレゼントが、その年だけでなく翌年にも贈られる。その数は、毎月、2000件を超えるという。

◇    ◇    ◇

お年寄りが介護施設に入ると、翌年にはご家族の訪問頻度が半減するといわれています。3年目には、さらに半減してしまう。寂しい思いをされているお年寄りは、実に多いんです。ならば、せめて「あゆみ」を通じてご縁をいただいた私たちが子や孫になったつもりでメッセージを差し上げたら、喜んでいただけるのではないか。そう考えて、始めました。

ただ、それは決して同情とか憐憫ではありません。心からの感謝なんです。いま、「あゆみ」がこれほどに支持をいただいて、徳武産業が今日を無事に迎えることができるのも、お年寄りのおかげなんですね。
「あゆみ」を発売した年の夏でした。画期的な商品なのですが、さっぱり売れない。実は、私と副会長が「あゆみ」の開発に没頭していた2年間、既存の事業はほとんど従業員に任せきりになっていて、売上が3割も落ちてしまいました。創業以来、初めての赤字です。そういう厳しい状況のなかで、「あゆみ」まで失敗してしまったら、もうどうしようもありません。私どもが生き残れるかどうかの瀬戸際でした。

そうして自信を失いかけていたとき、友人の施設で行なわれた夏祭りを手伝っていると、ご高齢の女性が近づいてきました。足もとを見ると、赤い水玉模様の「あゆみ」を履いておられました。話をうかがうと、もう90代で、死ぬまでに赤い靴を履いてみたかった、とおっしゃるんですね。毎日、「あゆみ」を枕元に置いて寝ているというお話で、私は決して間違ってはいなかったと、おおいに励まされました。このとき、初めて「いける!」と確信したんです。そして、いまもお客様からのはがきに励まされ続けています。

「あゆみ」そのものは、布とゴムでできた無機質な「モノ」に過ぎません。でも、「これで歩けますように」と、私たちが気持ちを込めることで、「モノ」に命が吹き込まれる。根拠のない精神論に聞こえるかもしれませんが、私はそう信じています。

月刊「ニュートップL.」 2013年4月号
編集部


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