3年保存可能な「パンの缶詰」を開発、防災備蓄と国際貢献の仕組みをつくる(株式会社パン・アキモト・社長 秋元義彦氏)
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栃木県那須塩原市に本社を構えるパン・アキモトは東日本大震災をはじめ、海外で災害・紛争・飢餓に苦しむ人々の支援に力を注いでいる。
そのための「武器」が、同社が開発した3年もの長期保存が可能で、しかもおいしい「パンの缶詰」である。食糧を防災備蓄しながら、被災者支援に役立てる画期的な社会貢献の仕組みを確立し、各方面から称賛を浴びている。
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被災者家族が、手渡された『パンの缶詰』のふたを開け、パンをほおばると「おいしいね」と言って互いの顔を見合わせ、涙を流す。先の東日本大震災では、あちこちの避難所でそうしたシーンがあった。
2010年1月に起きたハイチ地震でも、パンの缶詰が現地の被災者に配られ、缶詰を手にした子供たちが満面の笑みを浮かべる映像が残されている。そしてそこには、うれしそうに子供たちの様子を見つめるパン・アキモトの秋元義彦社長(58歳)の姿もあった。
「パン一つでこんなに喜ばれるんです。パン缶を持っていってよかったと毎回、思います」(秋元社長。以下、発言は同氏)
秋元社長は全国の一般市民や企業の協力・寄付を得ながら、東日本大震災の被災地に約10万缶のパン缶を送った。ハイチには地震発生直後の二週間で3万缶を届けた。海外だろうと紛争地だろうと秋元社長は自らパン缶を担いで乗り込み、できるかぎり直接被災者に手渡す。
パン缶といっても、昔からある乾パンとは別物だ。直径7センチ、高さ11センチほどの円筒形の缶詰に入ったパンは特殊な紙でくるまれ、ふんわりとしており、焼きたてのおいしさを保っている。
最長37か月、つまり3年もの賞味期限があり、その間、味が落ちることはない。4年以上前に製造された製品を開けてもらって賞味したが、「備蓄用にしてはおいしい」ではなく、本当に美味だ。秋元社長に促されて缶詰に入っている脱酸素剤に触れると、熱くなっていた。缶を開けたときに脱酸素剤が酸素に反応して熱を発したのだ。内部は無酸素状態を保ち続けていたことになる。無菌・無酸素のうえ、紫外線の影響も受けず、したがって味が劣化しない。
パン缶をリユースする“救缶鳥”プロジェクト
パン・アキモトは栃木県那須塩原市のJR那須塩原駅から東へ徒歩10分ほどの田園地帯に本社を構える。現在、地元のホテルや旅館などに納める通常のパンが売上の四割弱で、パン缶が六割強を占めているという。
パンの缶詰は、「おいしい備蓄食シリーズ」(賞味期限37か月)と「定番人気シリーズ」「プレミアシリーズ」(それぞれ賞味期限13か月)の3シリーズに分かれており、全部で15種類。ストロベリーやメイプル、チョコなど様々な味があり、価格は1缶400〜420円で、現在年間300万缶を出荷する。企業や自治体などが防災用備蓄としてまとめ買いするだけでなく、個人客も保存食や避難時の携帯用として買っていく。
パン缶以外にも、糖尿病や食事制限を受けている人向けに血糖値の上がりにくい「プチパン80」という商品も開発している。小麦全粒粉を使い、1個80キロカロリーを実現しながら、おいしさも求めたパンだ。
パン缶は新たな社会貢献の仕組みも生み出している。備蓄用のパン缶は賞味期限を過ぎれば廃棄される。あるとき、納品先の自治体から新しいパン缶を買うから古いものを処分してほしいと依頼された。
パン缶は中身と缶を分別して処分する必要があるが、秋元社長は自分たちの作ったパンが本来の目的を果たさぬままゴミになるのが耐えられなかった。「何とかしたい」という思いから生まれたのが、パン缶の「リユースシステム」だった。
新しいパン缶を再購入することを前提に、納入先から賞味期限の切れる1年前、すなわち購入2年後に古いパン缶を回収し、無償で国内外の困っている人に提供する。秋元社長はパン缶で人を救う意味から「救缶鳥(きゅうかんちょう)プロジェクト」と名付けた。
「救缶鳥」は、通常の2倍の大きさで、再購入する場合は、1缶あたり定価800円から100円を割引く。
09年から始まり、当初は大口顧客限定で対応していたが、その後、ヤマト運輸の協力で回収コストを下げ、小口対応も可能になった。海外支援の場合は、NGOの日本国際飢餓対策機構などの協力で救缶鳥を届けている。缶にはメッセージを書き込めるスペースがあり、被災者や飢餓に苦しむ人たちへの励ましの心をパンと一緒に届けることができる。ラベルに企業名を印刷すれば、社会貢献活動のアピールにもなる。海外の貧しい地域では、食べ終わった後の缶はコップや食器の代わりになるので重宝されているという。
すでに多くの企業、自治体、学校がこのプロジェクトに参加しており、KDDIでは一部のauショップで、救缶鳥のパンフレット配布と購入のあっせんを行なっている。
名古屋市にある金城学院では、新入生が救缶鳥を二缶購入し、災害時には自分と近隣の避難者のために備蓄することになった。中学・高校は3年サイクルなので、同社は特別に缶を加工して賞味期限を約4年に延ばし、生徒が卒業する際に回収して支援に回すようにした。
東京都は首都直下地震を想定して、民間企業に食料や水の備蓄を促す条例を検討中だが、救缶鳥を購入すれば防災備蓄だけでなく、国際(社会)貢献とイメージアップの一石三鳥が実現できるのではないだろうか。
「海外でもこの仕組みは有効なので、現在、海外進出企業に提案しています。われわれはパンとともに、保険のような“安心”を売っているのです。できれば、災害など起きず、パン缶を食べずにすむほうがいい。その安心を飢餓に苦しむ人たちにも分けてほしいと思っています。救缶鳥は備蓄と国際貢献の新しいあり方であり、学校では社会貢献教育の一環として導入するケースも増えています」
パン・アキモトは、もともと秋元社長の父、健二氏が脱サラして始めたパン屋だ。
健二氏は戦前まで存在した大日本航空の国際線無線通信士で英語や仏語にも堪能だったという。熱心なクリスチャンでもあり、敗戦後の食糧難に苦しむ人々を助けようと、1947年、故郷の那須塩原に秋元パン店を創業。栃木県学校給食の指定工場になるなど、地元のパン屋として親しまれ、発展していった。
阪神・淡路大震災をきっかけにパン缶を開発
秋元社長は76年に法政大学を卒業後、2年間の都内のパン屋での修行を経て、家業を手伝うようになっていたが、95年に起きた阪神・淡路大震災が同社にとっての転機となった。
神戸の教会に健二氏の知り合いがおり、支援のためにパンを焼いて送ることにした。ところが、届くまでに時間がかかり、約三割ものパンが廃棄されることになったという。
「パン職人として残念なことでした。被災地の人たちもおいしくて保存性のあるパンがほしいという。そのようなパンを作ることがパン職人としての使命だと思い、開発を決意しました」
秋元社長は朝3時から始まる通常のパンづくりを終えた昼過ぎから、保存できるパンの開発に取り組み始めた。当初、できたてのパンをビニール袋で真空パックしたが、袋を開けてもいったんつぶれたパンは元の形に戻らなかった。冷凍保存も試したが、解凍するとぺしゃんこになってしまった。
なかなか見通しが立たず、暗中模索していたとき、たまたま地元の多目的センターという施設で缶詰づくりの工程を見学し、これが応用できるかもしれないと直感した。
しかし、それからが大変だった。発酵させたパン生地を缶の中に入れて焼こうとすると、内部が結露してパンが内側にべったりとくっつき、ベーキングシートを中に敷いたら、水分が偏ってたまり、パンがふやけてしまった。和紙なら水分を均等に吸収してくれるのではないかと試すと、これがうまくいった。ただ、和紙には耐火性がないことから、日本の製紙メーカーに耐火性のある和紙の製造を依頼するが相手にされなかった。商社を通して探すと、ヨーロッパで耐火性と吸湿性を備えた紙が見つかり、ようやくパンの缶詰が完成。開発に着手して完成するまで1年半を要した。
ちなみに、製法は缶の中に紙を敷き、発酵させた生地を入れ、そのまま焼く。焼き上がり後、熱を冷ましてから、脱酸素剤を入れてフタをする。これで内部は無酸素状態になる。
日本、米国、中国、台湾で特許を申請、96年から販売し始めたが、当初、全く売れなかった。世の中になかった新しい商品であり、中身が見えないので、おいしいパンと言われても手が伸びない。備蓄できるという価値が、なかなか消費者には伝わらなかった。地元の観光牧場などで販売してもらったが、最初の1か月で売れたのはたった1缶だけだった。しかし、9月1日の防災の日に新聞やテレビでパン缶が話題として紹介されると少しずつ売れていった。
そして、04年の新潟県中越地震の際に、秋元社長自ら、パン缶を持参して現地に入り支援したことが大きな転機となった。各地の自治体も支援のためにパン・アキモトのパン缶を被災地に送った。パン缶が山積みになる光景がテレビから流れ、学校給食もパン缶、現地に調査に入った専門家たちにもパン缶が配られた。これを契機にして一気に知名度が上がり、災害備蓄用として多くの注文が舞い込むようになった。
宇宙に飛び立ったスペース・ブレッド
本社工場だけでは生産が追いつかなくなり、ちょうど沖縄県うるま市から誘致を受けたこともあって、05年に沖縄工場を建設。秋元社長が地域的なリスクヘッジのため南に工場を設けたかったことと、自身が沖縄好きであり、海外展開のための物流の観点からも好都合だった。
衛生検査の厳しい沖縄の駐留米軍にも非常食としてパン缶を納入しており、米国で販売するうえでメリットは大きい。秋元社長は、「将来的には米国でも救缶鳥プロジェクトを展開したい」という。米国・NASAのスペースシャトルにも、パン缶は搭載された。宇宙という特殊環境のため、その採用テストは非常に厳しいことで知られるが、パン缶は通常の仕様で合格したというのだから驚きだ。
09年には、若田光一さんが国際宇宙ステーションに長期滞在するときにパン缶を持参し、乗組員の間で取り合いになるほど人気だったという。
「以前から宇宙にパン缶を持っていってほしいと働きかけていたんです。若田さんがパン缶を“スペース・ブレッド”と呼んでくれたのはうれしかった」
ことしの東日本大震災では、同社のある那須塩原市も震度六弱の揺れに襲われ、大きな被害を受けた。同社工場も一部機械が倒れるなど操業に支障が出たが、秋元社長はまず被災地に在庫のパン缶1万5,000缶すべてを無償で運んだ。
その後、取引先に依頼して7,000缶を寄付してもらい、それも被災地に届けた。さらに、地元の経営者などに呼びかけて資金を集め、それで材料を調達してパン缶を作り、1,000万円分を送った。工場の機能は徐々に回復したものの、福島の原発事故の影響もあり、地元のホテル・旅館への客足が遠のき、パンの注文も半減して経営が苦しくなった。それでも秋元社長は被災地への支援をやめず、パン缶を送り続けたのだった。
その活動が4月頃からテレビで報道されると、義援金が同社に殺到。自動車で県外から遠路、200万円を届けに来た老夫妻もいた。そのうち、パン缶や救缶鳥を買い取って、被災地に送る企業や個人も現われ、支援の輪が広がるとともに、同社は経営危機を脱した。
いまでは防災意識が高まり、沖縄と本社工場で1日1万個のフル生産が続くほど、売れるようになり、ことし9月末の決算では昨年の1.5倍の年商6億円を計上する伸びとなった。
「社会貢献しながらビジネスができる時代になりました。息の長い貢献をするには利益も必要です。その仕組みを作るのが経営者の仕事だと思いますね」
被災者においしいパンを食べてもらいたいという支援の思いから始まったパン缶の輪が、世界に広がっていく。
月刊「ニュートップL.」 2011年12月号
吉村克己(ルポライター)
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