多くの販売店と共存しながら帽子の素晴らしさを広く伝えたい(株式会社栗原・社長 栗原 亮氏)
闘うトップ「override」「arth」など、帽子専門店を国内外に展開する栗原の栗原亮社長。最先端の流行を採り入れた商品展開が、幅広い年齢層の顧客に支持されている。創業以来の卸としての機能を維持しながら、SPAとしても業績を拡大する栗原社長が、これまでの歩みと経営観を語る。
東京・原宿--。栗原が神宮前に帽子専門店「override(オーバーライド)」をオープンさせたのは、1999年であった。その後、「arth(アース)」「カオリノモリ」など、テイストの異なる6ブランドの帽子専門店を展開。現在、すべて直営で国内に46店舗、海外に2店舗を出店している。帽子専門店の多店舗展開は、業界でもめずらしい。
帽子の製造卸だった同社で、小売への進出によるSPA事業と多店舗展開を主導したのは、4代目の栗原亮社長。取締役だった当時、新規事業として提案し、父で3代目の栗原裕社長(現会長)の了承を得て出店した。ただし、「赤字が2年間、続けば撤退する」という条件がつけられた。
本業が安定していたせいか、社内には小売への進出をリスキーな冒険ととらえる声が強かった。さらに、創業以来、卸の看板を掲げてきた以上、小売への進出は数100社に及ぶ取引先との関係に禍根を残すことにもなりかねない。周囲は、入社5年目の「社長の息子」の挑戦を冷ややかに受けとめた。
それでもあえて栗原社長が勝負したのは、業界を巻き込みつつある大きな変化に気づき始めたからだった。メーカーから消費者へ主導権が移り、消費者が流行をリードするようになれば、その動向を敏感に察知する感度が求められる。感度を磨くには、常に消費者との接点を確保しておかなければならない。小売への進出は、栗原が製造卸として生き延びるために不可欠な施策でもあった。
だが、現実は厳しかった。オープン直前まで準備に奔走し、当日はレセプションを開催したが、関係者以外、ほとんど来店客はなかった。以来、苦戦は続き、1年目は数1,000万円の赤字で終えた。勝負の2年目も苦境は変わらず、客足はいっこうに伸びない。撤退を覚悟した栗原社長は、責任を取り退職することを心に決めていたという。
ところが、期日まであと2か月に迫ったころ、状況が一変した。
◇ ◇ ◇
オープン以来の22か月間は、箸にも棒にもかからずで、まったくの赤字でした。さすがにもう無理だろう、と。やけになったわけでもないのですけれど、あるとき、友人に「おいしい屋台がある」と誘われて、おでんを食べに行ったんですね。
何の拍子にか、ふと見ると、赤いちょうちんに「おでん」と書いてある。「これだ」と思いました。早速、同じようなちょうちんを買ってきて、「帽子屋」と書いて店頭につるしたんです。すると、それまで店の前を素通りしていたお客様が興味を示してくださるようになって、売上も急に伸び始めた。最も少なかった月商が130万円くらいでしたから、ほぼ10倍ですね。残り2か月で10か月分の劣勢を挽回して、2年目は赤字を免れることができました。嘘のような、本当の話です(笑)。
感度の高い「街」がファッションをリードする
実は、何をしてもうまくいかなかったとき、店に立っていると、不思議そうな顔を向けて通り過ぎる方が多いことには気づいていたんです。「override」が何の店か、外観だけでは判断できなかったんですね。そのことに、「おでん」という文字を見て気づきました。屋台は、どれも同じような外観で、一見、何の店かわかりません。そこで、わざわざちょうちんに「ラーメン」とか「おでん」と書いてある。それはお客様への配慮です。私には、その配慮が欠けていました。経験不足を痛感しました。
ただ、私どものようにカジュアルな帽子を専門的に扱う店が、世間に広く認識されていなかったことも、原因の1つであったかもしれません。それまで帽子専門店と言えば、商店街にある家族経営のお店か、ご婦人向けの高級帽子店くらいでした。若者文化の最先端とされる場所への出店は、ほとんどなかったのではないでしょうか。ですから、「override」が「帽子屋」と認識されたとたん、おかげさまで、多くのお客様からご支持いただけたのだと思います。
90年代後半、ご承知のように、インターネットの普及によって、あらゆる業界で地殻変動が起こりました。それまで市場をリードしてきたメーカーが主導権を失ない、消費者が市場の動きを左右する時代に変わった。アパレル業界は、その動きが最も顕著な業界の1つだったと思います。
ところが、生意気な言い方ですが、私には栗原が変化に対応しようとしているようには見えませんでした。これまでどおり、メーカーの情報や業界内の動向が話題の中心で、お客様の嗜好の変化とか最新の流行事情について、説得力のあるビビッドな情報が社内で共有されているとは思えなかったんです。早晩、行き詰まるのではないかと感じました。
ファッションをリードするのは、メーカーではなく「街」です。それも、感度の高い若者が集まる街なんです。そこから離れて、私どもの商売は成り立ちません。「override」の出店地として、いわゆる「裏原宿」を選んだのは、そういう考えからでした。
ですから、当初は多店舗展開を志向していたわけではありませんでした。小売を通じて得た最新の情報を、昔からお世話になっている取引先さんにフィードバックするためのアンテナショップ、という位置づけですね。語弊があるかもしれませんが、私は別にドラスチックな改革とか刷新をめざしたわけではありません。端的に言ってしまえば、栗原に貢献してくれた社員の雇用を守りたかっただけなんです。口幅ったい言い方ですが、それが私にできる恩返しだろうと思っていたんですね。
◇ ◇ ◇
1967年、栗原社長は栗原裕会長の長男として兵庫県に生まれた。91年、青山学院大学を卒業。大手アパレルメーカーのワールドに入社し、法人営業部門に勤務した。94年、父の求めに応じて栗原に入社。2003年、4代目社長に就任した。
同社は、1922(大正11)年、栗原社長の祖父勝治郎氏が創業した帽子卸の栗原商店を前身とする。51年、法人化とともに、栗原社長の伯父弘氏が社長に就任。着実に業容を拡大するなか、76年、東京・青山に輸入帽子を中心とした専門店をオープンし、SPA事業の端緒としている。土地柄もあり、顧客には著名人も名を連ねたが、一定の役割を終えたとして21年後に閉店。だが、その経験は「override」の伏線となった。
また、同社は86年からOEM事業に進出。ライセンス契約を結んだメジャーリーグのベースボールキャップが若い世代から支持を得て、いわゆる「渋カジ」ブームを牽引することになる。91年、弘氏が会長に退き、弟の裕会長が3代目社長に就任した。
◇ ◇ ◇
もともと、家業を継ぐつもりはなかったんです。父も次男ですから、伯父の跡はその息子たちへの承継を考えていたらしいのですが、いずれも他社に就職してしまって、戻ってこなかったんですね。それで、父が継ぐことになり、その長男の私にお鉢が回ってきた。前職では「家業には戻らない」と約束していたので迷いましたが、結局、縁のようなものを感じて決断しました。祖父が亡くなったときの光景を思い出したんです。
祖父が亡くなったのは、私が高校3年生のときでした。そのお通夜の晩、私が1人で線香と燈明の番をすることになったんですね。親族のなかで、私だけ自由な時間があったからです。
祖父とは言え、遺体のそばで、たった1人で夜を明かすわけですから、正直、気味が悪かったのですが、そのうち慣れてきたのでしょうね。祖父のことをいろいろ思い出しているうち、初めて祖父と本音で語り合ったような気になりました。決して裕福ではないけれど、ひもじい思いもせずに暮らせるのは祖父のおかげだと、恥ずかしながら、そのときようやく思い至りました。
夜が明けると、社葬です。ずいぶん多くの方に足をお運びいただいたようで、500人くらいはいらっしゃったでしょうか。その行列を見て、私は考えをあらためました。祖父だけでなく、祖父がお世話になった方々にも感謝すべきだったんですね。
ブレーキを踏みながら直営店の出店を進める
ところが、私は再び大事な存在を見逃していたことに気づきました。栗原の従業員です。最寄り駅から葬儀場までのご案内も、葬儀場での雑事も、子供のころから見知っている会社のおじちゃんたちが真剣な顔つきでやってくれているわけです。「ああ、この人たちがいるから、おれは生きてこられたんやな」と、そのとき実感しました。
同時に、いつか何らかの形で恩返しをしないといけない、とも思いました。就職先にアパレルメーカーを選んだのも、「いつか家業に仕事を発注できればいいな」という気持ちがどこかにあったからかもしれません。そして、父から「戻ってこい」と声をかけられたとき、1年間くらい迷った末に決断できたのは、縁を感じたからでした。従業員のために力を尽くせということだな、と。
その気持ちは、いまも変わっていません。「override」を諦めずに続けることができたのも、遡ればこのときの経験があったからでしょうね。
◇ ◇ ◇
現在、同社は卸、OEM、SPAの三事業を展開しており、SPAは直営店の好調で売上の4割を占めるまでに成長した。
「override」はオープン当初こそ苦戦したものの、その存在が知られるようになってからは快進撃が続き、その後、東京・お台場や横浜、大阪などに出店を続けた。顧客層も価格帯も異なるブランドを複数、展開するため、同社の帽子の支持層は10代から高齢者まで幅広い。そのアイテム数も、8,000種類近くに及ぶという。
直営店の拡大はアンテナショップとしての充実にもつながり、顧客情報の量が増え、精度を高めた。毎週、各店舗から寄せられる売れ筋情報やファッション雑誌などに提供する撮影用商品の傾向などを分析。その情報を社内だけでなく、取引先にも提供することで、卸の販売活動にも活用している。
◇ ◇ ◇
ありがたいことに、SPA事業は順調に推移していて、今後もまだ伸びていくと予想しています。でも、積極的な出店攻勢は考えていません。むしろ、少しブレーキを踏みながら、できるだけ取引先さんと競合しない地域を選んで、慎重に出店していきたい。そういう考え方は、もしかすると経営者として間違っているのかもしれません。
でも、私どもが自信をもってご提供する帽子ですから、できるだけ多くの方に楽しんでいただきたいんです。そのためには、取引先さんの協力を得て、できるだけ多くの販売店で扱っていただいたほうがいい。私どもだけで全国津々浦々に販売網を広げることができるなら話は別ですが、そんなことは不可能です。帽子に関わる事業者が増えれば、それだけ雇用も広がります。帽子に携わりたいと願う人の受け皿を整えるのも、私の役割の1つだと思っています。
帽子は、日常生活の必需品ではありません。ですから、私どもにとって懸念すべきは同業に負けることではなく、お客様にそっぽを向かれることなんです。お客様に「帽子なんて必要ない」と思われるのが、最も恐ろしい。そうならないためにも、帽子の面白さや美しさ、心地よさや様々な機能を広くお伝えしていきたいですね。
月刊「ニュートップL.」 2014年2月号
編集部
掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。