プロフェッショナルと志を共有し、「有田焼万華鏡」をつくる(有限会社佐賀ダンボール商会・社長 石川 慶蔵氏)
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不振に苦しむ地場産業「有田焼」を用いた万華鏡や万年筆などを開発し、世界中から注目を集めている佐賀ダンボール商会の石川慶藏社長。各分野の専門家の「衆知」を結集することで、不可能とされた商品の開発に成功した。石川社長が、その道のりと成功の秘訣を語る。
日本を代表する陶磁器「有田焼」の不振は、もう20年以上に及ぶ。安価な輸入食器の増加やライフスタイルの変化などが原因で、売上高は90年の158億円をピークに減り続け、2011年には21億円まで激減した(財務省「有田焼主要組合売上高」より)。いま、有田における窯業界の売上は、ピーク時の約13%という壊滅的な状況にある。
だが、産業として存亡の危機に直面させられるなか、有田焼を使ったユニークな商品が開発され、国内だけでなく、世界中から注目を集めている。
その端緒となったのは、04年に発売された「有田焼万華鏡」。円筒部に有田焼を用いた商品で、1年間で約3500本を完売。1億3000万円を売り上げた。続く「有田焼万年筆」も発売後、5か月間で約1500本を受注。優美な工芸技術が高く評価され、08年開催の北海道洞爺湖サミットでは、参加国首脳への贈呈品に採用された。翌年、経済産業省主催「ものづくり日本大賞」優秀賞を受賞。
その後も、陶磁器製のねじ蓋をもつ有田焼の酒器や化粧水ボトル、ボックスに有田焼を使ったオルゴール「有田焼自鳴琴(じめいきん)」などが開発され、現在、スイスの世界的時計職人と組んで、文字盤を有田焼で製作する腕時計が企画されている。
これらの商品を発案し、開発を主導してきたのは、佐賀ダンボール商会の石川慶藏社長。化粧箱などの梱包材メーカーである同社も、有田焼の不振によって、業績は下降の一途をたどっていた。
有田焼の復活と有田町の活性化なくして、自社の業績回復もない・・・。
石川社長がユニークな新商品に挑戦し続けるのは、そう信じたからだった。
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有田町は人口2万1000人余りの小さな町ですが、いまも有田焼の窯元が100軒近くあって、人口の6割は何らかのかたちで陶磁器に関わって暮らしています。有田焼の不振は、窯業界だけにとどまらず、町全体の将来を左右する重大な問題なんです。「万華鏡」をはじめとする新商品は、すべてそうした危機感から生まれたものでした。
とはいえ、私がもし有田焼の窯元に生まれていたら、そうした企画は思い浮かばなかったでしょうね。考えついたとしても、それを実現しようとは思わなかったはずです。それほど、ある意味で「ばかげた」発想だったと思う。実際、「万華鏡」の開発に取り組み始めたとき、専門家からは厳しい意見をいくつもいただきました。
有田焼は約1300度の高温で焼成(しょうせい)するため、その過程でおよそ12%も縮んでしまいます。しかも、焼成によって変形するので、一つひとつ微妙にサイズや形が異なる。もちろん、食器なら問題はないのですが、精密な金具やガラスと組み合わすには、コンマ数ミリの誤差しか許されません。その技術的な問題をどう乗り越えるか。
また、有田焼は高価な焼き物です。それで万華鏡ができたとしても、数万円もする「おもちゃ」にどれほど需要が見込めるのか。
焼き物には素人の私にも、困難は容易に想像できました。実際、そうした指摘のなかには、のちに現実の問題となったものもあり、ずいぶん苦労させられるわけですが、それでもあえて挑戦しようと決意したのは、開発に取り組む前年に大病を患ったのがきっかけでした。大腸がんでした。
入院先の病室で万華鏡の魅力を知る
幸い早期発見だったものの、深刻な病気ですから、入院している間、最悪の場合も覚悟して、家族に遺書も書きました。死の恐怖のなかで、せめて小さな癒しにでもなればと思って病室に持ち込んだもののなかに、万華鏡がありました。
あるとき、同室だった高齢の女性に元気を出してもらおうと思って、その万華鏡を渡したんです。不思議なもので、筒の中をのぞきながらくるくる回していると、童心に返りますでしょう。その方も大変に喜んでくださって、看護師の女性たちまで代わる代わる楽しんでいる。
その様子に、私は万華鏡に対する認識をあらためました。「子供のおもちゃ」とあなどってはいけない。たとえ小さな喜びでも、病気で落ち込んでいる人を勇気づけることができるのですから、万華鏡には人の心に訴えかけるようなパワーがあるのではないか、と感じたんです。
そのとき、私の頭のなかで有田焼と万華鏡が結びつきました。日常、有田焼の不振をどうにかしたいと悩み続けていましたから、瞬間的に思考が飛躍して、ひらめいたのでしょうね。常識的に、理詰めで考えるだけだったら、有田焼で万華鏡をつくろうなんて私も考えなかったかもしれません。
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川社長は1947(昭和22)年、佐賀県小城市の農家に生まれた。西郷隆盛に心酔し、高校を卒業後、鹿児島大学へ進学。松下幸之助氏に大西郷の思想との共通点を見出し、大学を卒業した70年、松下電器産業(現パナソニック)に入社した。間もなくPHP研究所に出向。以来、主に法人営業部門で新規事業の開発に携わり、01年、妻の母が経営する佐賀ダンボール商会を継ぐべく退職した。31年間の勤務生活は、結果として、松下氏の経営哲学を学ぶ修業の場となった。
退職後、帰郷した石川社長は同社の副社長に就任。以後、社長を務める義母を支えた。そして、11年、義母が会長に退き、正式に3代目を継いだ。
同社は、1958(昭和33)年の創業。高度経済成長を背景に、石川社長の義父母によって地道に実績を重ねてきたが、85年に義父が死去。それ以降、社長を継いだ義母が堅実な経営に徹し、20名弱の従業員とともに石川社長を迎え入れた。そのとき、すでに有田焼は不振の坂を転げ落ち始めていた。
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「10年前だったら、あんたも『左うちわ』だったのにねえ」
佐賀に戻ってきた当初、地元の方からよくそんなことを言われました。でも、私はあまり気にならなかった。「不況またよし」というのが、松下さんの考え方なんですね。
ただし、それを乗り越えるには不退転の決意で、文字通り命懸けで旧弊を打ち破らなければいけない。一方、商売の原点に立ち返って、やるべきことができているか、あらためて確認する点検作業が必要です。それらはすべて松下さんの教えにあることですが、小なりといえど経営者の立場に立ってみると、その教えの重みを実感させられるようでした。
大腸がんを克服して「有田焼万華鏡」の開発に取り組んだときも、実は松下さんの経営観が原点になっています。いわゆる「衆知経営」です。
ご承知のように、衆知とは「多くの人の知恵」といった意味で、様々な人が知恵を出し合えば、一人では不可能なことも可能になるという趣旨ですが、まさに私のためにあるような言葉なんです。私は、有田焼についても、万華鏡についても素人です。私が一人でがんばったところで、何年かかっても「有田焼万華鏡」はできないでしょう。しかし、専門家の知恵と技術を借りればできるに違いない。そう信じて、窯元や各分野の専門家を訪れて協力を仰ぎました。
儲けではなく志を共有する集団は強い
並行して、通い詰めたのが地元の伊万里市民図書館です。毎月80冊くらいは借りましたから、年間1000冊近くも読んだと思います。有田焼や万華鏡に関する書籍をはじめ、経営の実務書や経営者の自伝、県の支援事業に応募するための企画書の書き方やプレゼンテーションのノウハウに至るまで、あらゆることを図書館で学びました。私ほど図書館の恩恵を受けた経営者も、少ないかもしれません(笑)。
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03年8月、石川社長の奔走によって「有田焼万華鏡研究会」が発足した。日本の第一人者で、世界的な万華鏡作家として知られる山見浩司氏をはじめ、皇室御用達の窯元香蘭社、築窯260年を超える源右衛門窯、佐賀市重要無形文化財「肥前びーどろ」を製作する副島硝子工業、陶土開発に優れた田島商店など、12の会社や専門家が参加。なかでも、山見氏の参加は成功への転機となった。それにより石川社長の熱意に信用が加わって、ライバル関係にある窯元が協力する異例の体制が実現したのである。
「500年後の人たちを感動させる、世界で初めての万華鏡をつくりませんか」
当初は難色を示していた山見氏も、石川社長のそのひと言に動かされ、全面的な協力を約束したという。
各分野のプロフェッショナルが研究を重ねることで課題は着実に解決され、技術的な問題は円筒部のサイズと形状を安定させる点に絞られた。予想通りの難問に、窯元は円筒の形状や焼成方法に工夫を重ね、陶土業者は粒子の均一な陶土を開発して貢献。試行錯誤の末、最難関も乗り越えることができた。
翌年3月、石川社長が念願した「有田焼万華鏡」は完成した。例年、有田町に100万人以上が訪れる「陶器市」の開催は5月。その寸前で間に合った。
「有田焼万華鏡」ができたのは、3つの理由からだと思います。
1つは、私自身、焼き物については素人だったことです。業界の常識を知らなかったから、専門家にすれば一見、無謀に思える企画でも、真剣に取り組むことができた。「知らない」ということは、ときに強さでもあると思います。
もう1つは、お金がなかったこと。潤沢な資金があったら、必死になって知恵を絞り、工夫をこらすこともなかったでしょう。また、国や県、有田町、マスコミなど、「万華鏡」には多方面から様々な形で応援していただきましたが、それも私どものような零細企業だからこその共感だったのでしょうね。
3つめは、有田町が不況であったことです。窯業界が好調だったら、あえて難しいことに挑戦しなくてもよいわけで、地元の関係者が共有する強い危機感が、たくさんの協力につながったのだと思います。
いずれの理由も逆説的ですが、心からの実感です。ピンチのなかにこそチャンスがあるとは、よく言われることですけれど、むしろピンチのなかにしかチャンスはない、と言ってもよいくらいかもしれません。
ただ、そうして非常の力を発揮できるのも、志あればこそです。もし、儲けることが目的だったとしたら、一流のプロフェッショナルが協力してくれることはなかったでしょう。「有田焼万華鏡」の完成は、絶対になかったと断言してよいと思います。いかに個性的で、実力ある顔ぶれも、志を共有する集団は強い。志や理念の大切さを体感できたことは、私にとって生涯の宝物だと思います。
月刊「ニュートップL.」 2013年2月号
編集部
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