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中小企業同士の連携を深め世界初となる商業深海探査機の開発プロジェクトを始動(株式会社杉野ゴム化学工業所・社長 杉野行雄氏)

キラリと光るスモールカンパニー

掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


ゴム製品の中小メーカーが集積する葛飾区において、杉野ゴム化学工業所は、創業時から高い技術力で特注のゴム部品・製品の開発を請け負い、生産機械製造から生産ライン設計まで行なう異色の存在として知られてきた。二代目の杉野行雄社長は父の志を継ぎ、ゴムの可能性を探りながら、中小企業の力を結集するべく世界初となる商業深海探査機の開発に乗り出している。

◇    ◇    ◇

水深8,000メートルの深海で、海底の様子を撮影したり、その泥を採取する世界初の商業深海探査機を開発するプロジェクトが、東京と千葉の中小企業四社を中心に進められている。

深海シャトルビークル「江戸っ子1号」と名付けられた無人探査機のプロジェクトは、決して夢物語ではない。日本の海洋研究の中心である海洋研究開発機構(JAMSTEC)の正式支援を受け、芝浦工業大学や東京海洋大学、東京東信用金庫の協力のもと、試作機はほぼ完成。この3月に耐圧テスト、今年度中に試験潜水を行なう予定だ。

プロジェクトのリーダーを務める杉野ゴム化学工業所(以下、杉野ゴム)の杉野行雄社長(62歳)は、楽しそうに抱負を語る。

「いままで魚類(脊椎動物)の生存が確認された世界最深記録は、たまたまその姿がとらえられた7,700メートル。8,000メートルを超えると魚類は生息できないというのが定説なんです。江戸っ子1号が、深海底で撮影できれば、生物学上の大発見ですよ。世界的なニュースになるし、日本の中小企業の技術力を世界に発信できるチャンスです」(以下、発言は同氏)

江戸っ子1号の試作機は高さ約80センチ、幅約120センチ。製造コストを抑え、専用の母船を必要とせずに一般の漁船などで運べ、何度も利用できる。乗用車一台程度の値段を想定しているというから、200万〜400万円で販売されることになるだろう。深海底の堆積物の中に生息する微生物や菌類から新薬を開発したり、レアメタルなどの貴重な鉱物資源の探索に活用できると期待されている。

ゴムメーカーが集積する葛飾区で父親が創業

杉野ゴムは杉野社長の父・健治氏が1956年に創業した、工業用ゴム製品の開発製造メーカーである。中小零細のゴム製品製造業が集積する葛飾区に本社を置く。かつては300坪の敷地に3棟もの工場をもち、大量生産も行なっていた。

葛飾区内には最盛期に500社近くゴムメーカーがあったが、現在は300社あまり。実際に稼働しているのは200社ほどだという。ゴム部品を必要とする家電、自動車などの組み立て工場が海外に流出したためだ。杉野ゴムも現在、本社ビルだけを残している。20年前に中国の大連にある知人の工場に出資し、海外の日系企業にゴム部品を供給しているのだ。

大連工場を除いた本社従業員は5名。この小さなゴム部品メーカーがなぜ、世界で誰も手がけていない商業深海探査機を開発しようとしているのか。そこには杉野親子が二代かけて築き上げた高い技術力へのプライドと、日本の中小企業を元気にしたいという強い思いがある。

杉野家には代々、ゴム製造関係者が多く、杉野社長の祖母の実家はかつて上場していたゴムメーカーだった。そうした関係から健治氏もゴム専門の技術者になり、戦前にゴム商社へ就職して最先端技術を習得した。

「英語やドイツ語に堪能だった父は海外の資料を翻訳しながら技術を身につけたそうです。その後、ドイツ・バイエル社の日本総代理店の技師長を務めたため、戦中、兵器開発にも協力することになり、戦後は戦犯とされてしまいました」

健治氏はロケット燃料や焼夷弾の開発に関わったため、戦後しばらく軟禁状態に置かれ、思うように活動できなかった。ようやく軟禁状態が解けた56年、現在の地に杉野ゴムを設立。最先端素材を研究し、ゴム材料を供給する目的で創業した。

ただ、健治氏がもつ高い技術力を知る同業やメーカーから、難しいゴム部品や製品の開発を委託されるようになり、材料から部品の製造装置、生産ラインまで設計するようになった。自社でも製造を手がけるようになり、開発と製造の二本柱で、最盛期には30人ほどの社員を抱えていたという。

難しいゴム部品を開発する駆け込み寺に

依頼されるままに家庭用品から原子力関連のゴム部品まで開発し、海外大手メーカーからも声がかかった。30年ほど前のこと、世界的な化学・電気素材メーカーである米国の3M社から、電気ケーブルや配線部をカバーする高電圧に耐えるゴムの開発を依頼されたのだ。

高電圧に対する絶縁性と耐久性をもち、なるべく肉厚が薄く軽いゴム製カバーを作ることは3M社でさえも容易ではなく、開発は難航していたようだ。杉野社長は父と一緒にこの難題に取り組み、1年で要望通りの耐電圧ゴムを開発した。

「3M社の依頼がある前から、素材を見直し、密度を高めればできるはずだというアイデアをもっていました。いわば鋳物と鋼の違いみたいなもので、高圧でゴムを成型するのです。当時、最先端の樹脂用射出成型機を応用した成型機を設計しました。3M社の担当者が驚いて当社まで見に来たのですが、あまりにもボロ工場なので、茫然としていましたね(笑)」

このとき開発した耐電圧ゴムはいまでも多数、使われているという。この一件で業界での杉野ゴムの名声は高まり、大手から中小までが難題を抱えてくる駆け込み寺になった。

産業用機械や建設機械の振動防止に使われるゴムを国内で最初に開発したのも同社だ。30年ほど前、建機を国産化する動きのなかで国産の防振ゴムが必要になり、建機メーカーからの依頼で手がけ、防振ゴム市場の7割を占めるほどになった。

「その頃から世界的にメイドインジャパンがもてはやされるようになりましたね。品質のよさで家電も自動車も日本製が世界を席巻し、その流れに当社も乗れました。開発依頼が相次ぎ案件が多すぎてお応えできないケースもあったほどです。これまで3,000点ほど開発したでしょうか。その後のバブル崩壊や国内の空洞化で当社の製造事業は打撃を受けましたが、開発事業はほとんど影響を受けず、むしろ技術顧問として海外工場の生産ラインを指導してほしいという依頼が増えました」

とはいえ、杉野社長は現在の国内の状況に強い危機感を抱いている。

「日本からものづくりや技術が海外に移転していくのを見るのは悲しいですね。日本には中国などに比べて高い技術やノウハウがある。それなのに、とくに町工場が誇る世界的技術は伝承されずに消えていこうとしています。放っておくと、日本のものづくりはおしまいですよ」

中小企業は連携して製品開発をめざせ

杉野社長は日本大学生産工学部に学んだ。卒業後、ある大手企業に就職が決まっていたのだが、杉野ゴムの工場長がその前年に急死したことから、父に誘われて72年に入社した。

父と二人三脚で開発に取り組んでいたが、杉野社長が30歳のときに父が63歳の若さで亡くなる。父が高名だっただけに、杉野社長は業界内で“若造扱い”され、苦い思いをした。早く知識と技術を身につけようと、その後の3年ほどは毎日約4時間睡眠で勉強に励んだ。材料メーカーの製品発表会などに出向いては強引にサンプルをもらって分析し、発表データに誤りがあれば公然と指摘したことから、業界内で煙たがられたという。

「製品発表会の席上で質問して発表者を困らせるので、追い出されたこともありますね。しかし、なかには私のことを面白いヤツだとかわいがってくださる方がいたり、分析データが正しいので大手メーカーの技術者とも仲良くなった。おかげさまで、最先端技術を早く身につけることができました」

こうして杉野社長は、父と同じく高い技術力を武器に開発を続けてきた。だが、葛飾区内の同業者たちは経営に苦しみ、廃業が相次いでいる。

「今後、中小企業が生き残るには同業や異業種と提携し、連合体を組んで共同開発していかなければなりません。ゴム部品メーカーの多くは下請け仕事であり、スペック通りのものを作るだけ。そこで、同業の仲間と勉強会を始めました。製品を共同開発するために市場調査から始まり、アイデアを練って、企画・設計し、製造・販売する流れをともに学んでいくのです」

杉野社長は葛飾区内にある葛飾ゴム工業会の会員企業を中心に、「技術伝承講座」を13年ほど前にスタート。ゴム業界は伝統的に「技術は門外不出」の気風が強く、同業同士の交流は少なかった。杉野社長の試みも当初は反発を受けたが、6社から始まった講座には現在、葛飾区以外の企業も含め約30社が参加。事業の連携も進んでいる。

製品開発を勉強するには実地が最適だ。杉野社長はゴムを活かした製品アイデアを練り、2004年にゴム製の家具転倒防止グッズ「地震耐蔵(じしん 被災地の避難所などで簡単に間仕切りできるゴム製の道具「UFO」も開発。今後、正式販売する。これは、未確認飛行物体を思わせるお椀を上下逆さまにした形状で、上部に十字の溝が切られており、その溝に段ボールやベニヤ板を挟んで、間仕切りに使う。津波被害を受けた仙台市の小学校では、杉野社長が無償で提供したUFOを使って体育館内を間仕切りし、臨時教室を6区画も作った。

冒頭で述べた江戸っ子1号は、技術伝承講座の拡大版として始めたプロジェクトである。

杉野社長が大阪の中小企業が連携して共同開発した小型人工衛星「まいど1号」にヒントを得て、深海探査機の開発を思いついたのが5年前のこと。だが、周囲にその構想を話すと、できるわけがないと無視された。異業種とも連携したいと考えていた杉野社長は、商工会議所などにも掛け合ったが、まったく反応はなかったという。

そんなある日、東京東信用金庫の支店長にその経緯を話すと、「それは夢があっていい」と賛同し、紹介してくれた芝浦工大などに話をもちかけると同大学の教授も共感して、JAMSTECの研究者につないでくれた。JAMSTECも興味を示し、協力を約束してくれたことからトントン拍子に進み、異業種16社が参加するプロジェクトへと発展した。

世界初の事業に中小の連携で取り組む

ところが、当初設計した探査機はチタン製ボディで自走式の車のような形状だったため、開発費を試算すると材料費で1億円、工賃を入れると2億円という予想外の額になった。それほど多額の資金は出せないと参加企業は徐々に抜けていき、実質、同社だけが残った。

身の丈にあった規模のプロジェクトにしなければならないと杉野社長は考え直し、JAMSTECの研究者に相談すると、いいアイデアがあるという。海洋のブイとして使われている市販の耐圧ガラス球が水深8,000メートルの水圧にも耐えられるというのだ。おもりで深海底まで沈み、作業を終えるとおもりを捨てて浮上、船で回収する。杉野社長はこのアイデアをもとに設計し直した。

ガラス球は透明であり、その中に搭載する撮影用のカメラやライトは市販品を使うことができる。開発費を2,000万円に圧縮できた。JAMSTECは資金だけでなく、試験設備やテスト用調査船の使用など全面的に支援。東信用金庫も協力企業を紹介してくれて、東京や千葉の精密板金、電子機器、試作加工の異業種3社が加わった。

今年度、試作機で試験潜水を行ない、3Dカメラでの深海撮影や海底堆積物の採取を予定している。そこで魚類を発見できれば、まさに夢の実現だ。

探査機には金属に代えてゴム部品も使われており、深海で使用に耐えれば、ゴムの新たな用途も広がるという。

「突拍子もないことを考え、実行できるのが日本の中小企業の強み」と、力強く語る杉野社長の後に続く中小企業が出てくることを願ってやまない。

月刊「ニュートップL.」 2012年4月号
吉村克己(ルポライター)


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