×

記事検索

商品検索

経営者人生の完遂を志し精力的に活動する元ソニー会長・社長 出井伸之

トップリーダーたちのドラマ

掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


ここ数年、ベンチャー企業というにはまだ生育途上だが、しかし豊かな将来性を感じさせるインキュベーター内で孵卵中の開発型企業をいくつか訪ねる機会があった。

いずれも、目端の利く内外の投資ファンドやインキュベーターが支援に乗り出しているのだが、その何社かで「先日、出井さんが話を聞きにいらっしゃいました」とか、「近々、出井さんがお見えになるんですよ」とかいう話を耳にした。

出井さんとは、言うまでもなくソニーの会長・社長をつとめ、経団連副会長まで歴任した出井伸之のことである。

小規模企業の真贋を自らの足で見定める

出井が中東系の国家ファンドから投資資金を得て、日本の開発型ベンチャー企業に投資しているという噂はそれ以前から聞いていた。

もっともこの話は正確ではなく、ソニーの役員を退任した出井がクオンタムリーブというコンサルタント会社を設立し、その業務の1つとして日本の開発型企業への支援を行なう一方、07年に出井個人がドバイのインターナショナル・キャピタル・エル・シーという投資ファンドが組成したあるファンドのアドバイザリー・ボードのメンバーに就任したことが結び付けられて、そうした噂になったようだ。

それにしても、一時期は売上高が5兆円をはるかに超えるグローバル企業を率いた有名経営者が、70歳を超えてなお売上高さえ満足に立たないような、従業員10人とか20人とかの小企業の真贋を見定めるために下町の工場街などを巡り歩いている図は、なかなかユニークである。

記者は最初にこの話を耳にしたとき、いかにもタフな出井らしいなとその風貌を思い出した。と同時に、そう簡単に枯れてたまるかという、彼の負けん気をも垣間見た気がした。

出井は95年に社長に就任するが、直前の常務時代、広報担当をしていた。そうした関係で、この時期何度か会ったことがあった。

第一印象は、えらく隙のない人だなというものだった。衣服から、態度物腰、口調に至るまで。そぎ落としたような風貌に、細身で長身だから、ますますである。

口調も辛らつで、ソニー関係者は「出井さんのことを好きだという人は、社内では珍しい」という話さえしていた。ただし書き添えておくと、そういう自我の強い人間が出世するのが、ある時期のソニーだった。

出井を社長に据えた大賀典雄しかり、創業者の一人盛田昭夫しかりである。国際企業はそうした〝ブレない〞人でないと経営できないということからだ。

社長就任後のことだが、出井は還暦を迎えるとチャンチャンコの代わりに赤いポルシェを買って、乗り回していた。その前はジャガー、さらにその前はフェアレディZが愛車だったとも聞く。

父親が早稲田大学教授だった関係で、本人も早稲田を出ているが、中学までは成城学園であり、泥臭い、いわゆる早大OBをイメージするとかなり違う。

1937年生まれの出井はまた、同年代の早稲田出身者には珍しく国際派である。フランス語が達者で、欧州駐在を二度にわたり経験、それに先立ちスイスの大学院で修士課程を終えている。

二度の左遷にめげす本流にカムバック

都会的で、センスのいいエリートと言っていい出井だが、若かりし頃は相当な頑張り屋だった。その上、上司に対してもずけずけものを言うタイプだったようだ。

このため二度にわたり左遷されている。最初はフランスから帰国すると間もなくで、子会社の物流倉庫の「倉庫番」のような仕事に飛ばされている。出井は係長だった。

二度目は取締役になって4年目の93年のことで、このときは東京メトロポリタンテレビジョンというUHF局の常務として出向を命じられている。社内では「片道切符」だと噂が流れたらしい。しかしいずれも2年も経たずに本流へカムバックしている。

それまでの仕事ぶりと、経営者としての資質を買う人が、上層部に存在したということだろう。

しかし出井の最大の屈辱は、この二回の左遷ではなかった。

社長に就任した出井は、「デジタル・ドリーム・キッド」などという目新しいソニーの企業ドメインを表す言葉を打ち出すなどして話題を呼んだだけでなく、96年にはノート型パソコン「ヴァイオノート」を最後発ながら売り出し大ヒットさせたほか、カラーテレビ、MDプレーヤー、カメラ一体型ビデオなど、分社した各カンパニーがそれぞれ大きく売上を伸ばした。

就任丸3年で連結売上高は就任時の1.7倍にまで急増し、この時期、出井の経営者としての名声は最高潮に達したと言っていい。

無念の降板に負けん気がおさまらず

だがこの年、円高が急激に進行、業績は大きく落ち込み、やがて世界市場でトップシェアを得ていたカラーテレビ部門における、薄型テレビへの取り組みの遅れなどが次々に露呈、「ソニーの凋落」がささやかれ、「出井神話の崩壊」がつぶやかれ出した。

文系出身ながら技術に強いというのがうたい文句だった出井のメッキが剥げたなどという辛口の批評も飛び出した。05年には、ある経済誌から「国内最悪の経営者」というレッテルまで貼られている。

結局、社内外からの退陣要求に抗しきれず、この年にハワード・ストリンガーにあとを譲りソニートップの座を降りざるを得なくなる。

負けず嫌いの出井にとっては、無念の降板だった。そうした思いを表に出すことなく、最近ある雑誌で「ソニーという冠がとれて、あらためて日本の競争力って大丈夫なのかって思うようになったんです」と語っている。大所に立って日本経済の復活に貢献しようということだろう。

しかし胸中には、それだけでなく生煮えだった経営者人生を新たなシチュエーションの中で、完遂させたいという思いで一杯なのだと思う。

それゆえ、名もない企業を訪ねてインキュベーター施設を精力的に歩いているのだろう。その企業にとっても、出井にとっても目指すは、将棋で言う「歩成り」に違いない。

月刊「ニュートップL.」 2011年10月号
清丸惠三郎(ジャーナリスト)


掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

お買い物カゴに追加しました。