世界初の手話ビジネスで手話の普及に貢献する(株式会社シュアール 社長 大木洵人)
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大木洵人氏は大学在学中から手話に興味をもち、大学三年のときにシュアールを起業。
聴覚障がい者の依頼に応じて手話通訳スタッフが、端末を通して手話で通訳する「モバイルサイン」や、手話から言葉を調べることのできるウエブ上の手話辞典などを開発。
企業を巻き込んだ世界初の手話ビジネスを生み出し、聴覚障がい者のコミュニケーション・インフラをつくろうとしている。
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10月1日に開幕した家電・情報技術の国際展示会「シーテック・ジャパン」の一角に「手話×IT」と掲げたブースがあった。出展企業はシュアール。
社名の由来は手話を「レギュラー」にする意味で、手話とRを掛け合わせた。手話が一般的でない社会から、当たり前に「手話ある(シュワアル)」世界にしたいという大木洵人社長(26歳)の願いが込められている。
「以前に比べて手話に関心をもってくれる人が増えました。かつて、こうした展示会や賞をいただくと場違いな感じでしたが、いまはそうした感覚も薄れたように思います」と大木社長はにこやかに語る(以下、発言は同氏)。
シュアールは手話ビジネスを普及させ、聴覚障がい者が聴者と対等に生活できるインフラをつくりたいと大木社長が2009年、慶應義塾大学の3年生のときに設立した企業である。これまでにない発想で次々と手話ビジネスを立ち上げ、世界からも注目を浴び、国内外で様々な賞を受賞している。
主なものだけでも10年にグッドデザイン賞、11年に京都リサーチパーク主催「テクノロジー&ビジネスプランコンテスト・イン・キョウト」、12年にはフジサンケイビジネスアイ主催「イノベーションズアイアワード」を受賞。同年にはアメリカに本部を置き、社会起業家を支援する「アショカ」という団体から助成を受け、東アジアで初めて支援対象となるアショカ・フェローに選出された。さらに、アメリカ「フォーブス」誌が毎年選ぶ「30歳以下の世界30人の社会起業家」にも選ばれた。
JR東日本も採用 遠隔手話通訳サービス
シーテックへの参加も、独立行政法人情報通信研究機構(NICT)が開催する第15回情報通信ベンチャービジネスプラン発表会においてシュアールが最終選考に残ったため、NICTブースのなかに出展したものだ。
これほど高い評価を受けるシュアールの手話ビジネスとはどのようなものか。現在の事業は三本柱になっている。
第1の事業は、ネットのビデオチャット機能を使った遠隔手話通訳「モバイルサイン」だ。聴覚障がいをもった利用者がタブレット型パソコンやスマートフォンなどを使って、シュアールのコールセンターを呼び出すと、手話通訳士の資格をもつスタッフが画面とスピーカーを通じて遠隔で手話通訳を行なう。
現在、「テルテルコンシェルジュ」のブランド名で日本語だけでなく英語、中国語、韓国語にも対応している。コールセンターは川崎市にあり、10名のスタッフが交替で待機。全員が手話通訳士の資格をもつ。
また近々、福岡にもコールセンターを開設予定。手話には地域ごとに「方言」があり、大木社長はゆくゆくは全国各地にコールセンターを設置し、現地のスタッフによる手話通訳サービスを提供したいと考えている。
利用は無料だが、ホテルや店舗、行政窓口などと有料で契約して端末を設置することで、収益を上げるビジネスモデルである。現在までに盛岡市役所に50台、東京メトロに20台、JR東日本の山手線主要駅などに15台、さらにJR東京総合病院、ホテルなど全部で370台ほど導入されている。
「これまで聴覚障がい者が服や靴を買いたいと思っても、色やサイズを紙に書いて店員に手渡すしかありませんでした。それでは自動販売機と同じです。モバイルサインを利用すれば、店員と『最近の流行は何でしょう』などと会話することができます。店員と会話が弾んで買物ができると喜ばれています」
モバイルサインは、聴覚障がい者を雇用する企業でも使われ始めている。障がい者の就労を促進、支援する動きが強まるなか、今後、こうしたサービスは必須だろう。また、一般消費財を販売する企業にとっては、聴覚障がい者向けのコールセンターとしてモバイルサインを利用できる。大木社長もその事業化を進めようと動いている。
世界初のウエブ型 手話辞典をリリース
第2の事業が、ウエブを活用した手話辞典「SLinto(スリント)」。スリントはクラウド型データベースで、利用者が参加してつくり上げていくウィキペディア型のサービスだ。
従来の手話辞典は日本語など話し言葉から手話を引くことはできたが、手話から話し言葉を引くことはできなかった。手話は複雑な表現形態で、指先の動きや肯く角度など、わずかな違いで様々な言葉や状況を表現する。基本的には指の形と手の位置、それらの動きと方向、さらに表情などを組み合わせる。そのため、紙など二次元上では表わすことができず、誰もがあきらめていた。
たとえば、「暑い」は団扇をあおぐしぐさだが、暑さの程度によって表情が変わる。「お父さんが子供を叱る」という文章を表現するには、まず「父」を示したうえで、次に子供が叱られる様子を表現する。そのとき、手の動きは人形劇のように子供が父のほうを向いて叱られるように表わす。
また、手話には方言があり、関東のなかでさえ地域差がある。世界には、認識されているだけで126種の手話があり、アメリカとイギリスでも違う。
さらに言えば、日々生まれる新語にどう対応するか。「あまちゃん」や「半沢直樹」といった固有名詞をどう表現するか。
この難題に大木社長は真っ正面から取り組んだ。そして、ひとつの画期的な発明をしたのだ。それが「手話キーボード」である。手話キーボードは左右の指の形と手の位置だけを使って入力し、検索もできる。もちろん、それだけでは厳密に手話を表現できないが、大木社長はざっくりと入力・検索し、あとは「候補」を示せばいいと割り切った。候補として出てくる単語にはそれぞれ動画がついており、映像で動きを確認できる。
たとえば、「右手5本指」と「お腹」の位置を選んで検索すると「空腹」「大会」「愛してる」という3つの候補が出てくるので、それぞれ映像を見て探すことができる。
世界の手話人口は7,000万人
ことし8月にスリントは日米で正式リリースされ、今年度内に韓国やインド、さらに英語圏のイギリス、カナダ、オーストラリアなどでの公開も予定している。シュアールは運営に徹し、単語の登録はすべてユーザーに委ねる。現在、登録語数はまだ100語程度だが、大木社長は周知を図ってユーザー数を増やしたいと考えている。
「スリントは聴覚障がい者だけでなく、聴者で手話を学習している人たちにも使ってもらいたいと思っています。世界で手話を使っている人たちは7,000万人といわれ、そのうち少なくとも5,000万人は手話学習者です。これから日米でユーザーを拡大するためにバナー広告を使ったり、積極的な情報発信をしていきたいと思っています」
利用者と登録語数が増えれば、そこにビジネスの機会も生じる。スリントでは、誰でも単語とその動画を自由に登録できるので、新たな用語、固有名詞、商品名などをユーザー自身がつくり出して公開できる。他のユーザーがその新語に賛同すれば「FIT(ぴったり)」というボタンを押すことで、評価の高い単語が上位に表示され、自然に新語として認知されるしくみだ。企業は新商品の製品名などをスリント上で公募することも可能となり、課金できるビジネスとなる。
データが蓄積すれば、データベースを企業に提供して収益を得ることも可能だ。実際、すでにデータベースを利用したいという企業からの問い合わせもある。また、手話キーボードの特許も国内外で申請しており、ライセンス収入も想定される。
日本では手話学習者の多くが主婦なので、その利用が増えれば主婦層向けのバナー広告を企業から集めることも可能だ。アメリカではエリート学生など優秀な若者に手話学習者が多いので、人材採用広告を企業から募るというビジネスモデルもある。
第3の事業は、手話による観光案内アプリケーション「Shuwide(シュワイド)」だ。美術館・博物館や観光名所では音声解説装置を貸し出すサービスがあるが、シュワイドはタブレット型パソコンやスマートフォンを使って、手話と音声で解説する観光ガイドである。これまで、2011年に鎌倉の観光ガイドを作成した。その次が決まらず、苦戦しているが、大木社長は、今後も行政に働きかけていく方針である。
挫折を味わい手話と出合う
大木社長はもともと起業家を目指していたわけではない。大木社長の父は元プロゴルファーで、その父に小学校時代、パソコンを買ってもらい、インターネットに夢中になった。
中学時代にネット上で、偶然、兵士が母親と子供に銃を突きつけている写真を見た。大木社長は強い衝撃を受け、「真実を世の中に伝える人間になりたい」と、フォトジャーナリストを目指すことを決意した。父を口説いてカメラを買ってもらい、それから写真撮影に没頭するようになった。
高校では写真部を立ち上げて、写真雑誌への投稿を繰り返した。高校3年のときはジャーナリズムを学ぶため、1年間アメリカに留学。帰国後、全国の高校生が競い合う写真甲子園への出場をめざすが、本戦出場権を得ることはできなかった。
挫折を味わい、自分を見つめなおすためにカメラをいったん置き、2007年、慶應義塾大学環境情報学部に入学した。視野を広げるために何かやりたいと考えているうちに、意外にも中学2年のときにテレビで見た手話の記憶がよみがえった。「手話って面白いかもしれない」と思った大木社長は、手話サークルを探したが、すでに活動を休止していた。
仕方ないと写真サークルやテニス部に入ったが、どうもしっくりこない。そのうち、偶然にもクラスの友人が手話をやらないかと言ってきた。不思議な縁を感じた大木社長は手話を勉強し始め、大学1年の10月に手話サークル「I’m手話」を設立。1か月経つとメンバーは10人ほどに増えた。そして、その年の大晦日にはNHK紅白歌合戦に出演してしまう。同じ学部を卒業した歌手、一青窈の手話バックコーラスを務めたのだ。
手話コーラスは話題になり、その後、各地のコンサートなどに呼ばれるようになった。
「それまで手話の娯楽がなかったので注目されたのだと気づいて、それなら手話で娯楽番組をつくろうと思い立ちました」
こうして2年生の5月に「手話ネット」(現・リンクサイン)というボランティア団体を設立。手話による旅行情報番組をつくってネットで配信したが、あまり話題にはならなかった。しかし、このとき聴覚障がい者のキャスターと一緒に各地を旅行したことから、大木社長はその苦労を初めて知った。駅員との交渉もままならないし、ホテルで部屋にいる彼を呼び出そうにも、呼び鈴も電話も通じない。110番や119番通報さえ簡単にできないことを知って、遠隔手話通訳が必要だと強く思った。
だが、質の高いサービスを長期にわたって提供するには、ボランティアではできない。そこで、営利企業として収益を上げながら、スタッフを雇用し続けるために、起業するしかないと決意した。まず、その準備として08年にシュアールグループを創業。翌年、大学3年生のときに株式会社を立ち上げた。
大木社長自身は、社会貢献や社会起業家と、大上段に振りかぶるつもりはない。何より手話が好きで、手話を広めたい。社会のニーズを満たすためにやるのだから、一般のビジネスと同じだと言う。創業から5年経ち、ようやく企業としての収益体制が整ってきた。大海原に船出する帆が、いま風をはらみ始めた。
月刊「ニュートップL.」 2013年11月号
吉村克己(ルポライター)
掲載内容は取材当時のものです。
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