×

記事検索

商品検索

現代の蔦屋重三郎か?出版界を変える非常識人・角川春樹

トップリーダーたちのドラマ

掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


このところ、必要があって江戸時代の出版プロデューサーの事跡を調べている。
もちろん当時は出版プロデューサーなんていう言葉はなく、書肆つまり本屋の主人が、編集者兼営業兼PR担当といった何でも屋の時代である。
なかでも知られているのが、江戸後期に遊芸の町吉原のガイド本「吉原細見」から大をなし、最近とみに話題の東洲斎写楽や喜多川歌麿らを用いての役者絵で、江戸中の人気を博した蔦屋重三郎だ。

私はこの蔦屋重三郎は、ある意味で時代の限界性の中で「メディアミックス」を試みた人ではないかと考えている。
写楽のよく知られている「大首絵」というのは、版木による印刷の粋を凝らしたもので、当時の人たちの印刷物に対する常識を覆したのではないか。
文字中心の印刷物の世界に、インパクトのある浮世絵、ビジュアルで打って出た。その意味でのメディアミックスというわけである。

蔦屋重三郎が時代を画する、江戸の編集プロデューサーだと時として呼ばれるのはそうしたことからであろう。
では現在、彼に匹敵するプロデューサーがいるであろうか。

私の編集者としての師匠は本多光夫といい、『週刊女性』の創刊編集長をつとめ、『家庭画報』『プレジデント』をリニューアルしてそれぞれ50万部、30万部雑誌に育て上げた。
『オレンジページ』『レタスクラブ』も彼なしには生まれなかった。本多の親しい編集者仲間に「田中角栄研究」で『文藝春秋』を100万部雑誌にのし上げた田中健吾がいる。
ともに練達の雑誌編集者だった。しかしそれはそれで大変な才能だが、売れる雑誌を創ったに止まり、編集出版の世界を大きく変えたとは言いがたい。

文庫を創り出した岩波茂雄、大衆雑誌の時代を産んだ野間清治など革命児とは、そこが違うところだ。もちろん、蔦屋重三郎とも違う。

活字と映像のコラボ

そんなことを考えているときに、ふと思い起こしたのが角川春樹である。角川書店の創業者角川源義の長男で、弟は現在角川グループホールディングス会長の角川歴彦だ。

角川は1971年11月、父源義が亡くなったことから、29歳で角川書店社長に就任し、93年にコカイン密輸事件で逮捕され辞任するまでその地位にあった。
その前年には歴彦を角川書店から追放したりして物議をかもしている。自らも、社長就任以前は源義との仲が必ずしもうまくいかず、社内で干されていたと語っている。

源義という人も教員出身で、教養書出版を業としたにもかかわらず、私生活は乱脈乱倫だったと伝えられている。
角川春樹は、複雑な家族関係を背景に育った人物だといっていい。自らも常識人と異なる生き方をしてきた。「5度の結婚、5度の離婚」などと紹介されるのは、その一例に過ぎない。

その角川が、出版経営者として注目されるようになるのは、76年に横溝正史の『犬神家の一族』、翌77年に森村誠一の書き下ろし『人間の証明』という具合に、書籍、ことに文庫と映画とを連動させて売り出すという手法を創案し、実行したからである。まさにメディアミックスによる、出版界の革命と言ってよい。

横溝正史作品はこの時点で、すでに過去のものになっていた。だが、その作品世界の現代性に着目した角川が、過去の作品視されていればいるほど自社で市場を独占できると考え、映画化に踏み切ったものである。次の『人間の証明』は一転、書き下ろし作品となったが、映画との連動と、出版市場の独占を狙った点では同じであり、事実、この『人間の証明』は単行本・文庫合わせて累積700万部を超える大ベストセラーになった。

記者が、角川に会ったのもそうした一連の映画製作に関係してであった。90年、麻薬問題が身辺にくすぶっていた時期でもあったが、角川は自ら制作の総指揮をとり、監督をもつとめて、海音寺潮五郎の大作『天と地と』を映画化した。書店店頭には角川文庫『天と地と』がうずたかく積まれていた。

そこで記者が編集長をつとめていた雑誌でも、角川と角川の大学の先輩に当たる歴史学者と、直木賞選考委員をつとめる歴史作家との鼎談を企画したのだった。

毘沙門天の生まれかわり…

『天と地と』はいうまでもなく、越後の虎と称えられた上杉謙信の生涯を描いた名作だが、角川の謙信に対する思いいれは大変なもので、早くに母親と別れ、父親に疎まれ、兄弟とは仲たがいし、ただ姉だけが味方だったと設定されている謙信に、自らの半生を引き写して見ているような観があった。
また領土のためにではなく、義のために戦う謙信は、日本のためなら命を捨てると明言するこの人の琴線に、強く触れる存在でもあったのだろう。だがその鼎談で何よりも驚いたのは、「謙信は毘沙門天の生まれかわりだと信じていたが、実は私も毘沙門天の生まれかわりなんです」とごく真面目な顔で宣したことである。2人の鼎談者も、これには返答のしようがない風で、口あんぐりという感じであった。天才と隣り合わせのある種狂気をも醸し出していた。

最近、角川は「かつて私は角川書店を規模的に大きな出版社にしたいと考えて経営していたが、角川春樹事務所はいい仕事ができるグッドカンパニーを目指している」などと語っている。その意味ではやや常識的思考に堕していると言えなくもない。

しかし「ちょいワルおじさん」くらいに満足せず、昨今の出版界の閉塞状況を打破するようなアイデアをこの人に期待するのは記者だけではあるまい。蔦屋重三郎も真面目くさった常識人などではなく、あちこちから後ろ指をさされる非常識で奇妙なヤツだったのだろうから。

月刊「ニュートップL.」 2011年7月号
清丸惠三郎(ジャーナリスト)


掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

お買い物カゴに追加しました。