不便や悩みの解消を第一に考えてアイデア歯ブラシを開発する(ファイン株式会社 社長 清水直子)
キラリと光るスモールカンパニー掲載内容は取材当時のものです。
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歯ブラシ専門メーカーとして、大手が考えつかないようなアイデアあふれる新製品を開発するファインは、3代目の清水直子社長になって口腔ケアや介護用品など、要介護者・高齢者向けのラインナップを充実させている。
悩みや葛藤を抱えながらも両親から経営を受け継いだ清水社長は、「オリジナリティを大切に、人まねはしない」と、その商品開発のポリシーを語る。
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毎日、何気なく使っている歯ブラシだが、化学物質過敏症の人たちはそうもいかない。一般的な歯ブラシを使うことができないのだ。
歯ブラシ専門メーカーのファインは、1998年に国内で初めて生分解性樹脂と紙のブレンド樹脂を使った歯ブラシ『エコット』を開発した。続いて、2000年には生分解性樹脂の1つであるポリ乳酸を使った『エパック:21』を発売。08年には竹繊維を混ぜた『FINEeco41』を発売している。
ポリ乳酸は植物系由来のデンプンなどからつくられるためか、化学物質過敏症でもアレルギー反応が出にくい。しかも、堆肥など微生物が豊富な環境では、分解されやすく、自然環境への負荷も軽い。
ファインは、生分解製樹脂歯ブラシでは国内で90%ほどのシェアをもつと推定される。生分解製樹脂の原価は一般的なプラスチックの3~5倍だが、同社は竹の歯ブラシ『FINEeco41』を1本430円と抑えた価格で販売。利益は少ないが、「世の中が必要とし、役に立つ商品を提供するのが当社のポリシー。人まねはしないし、ブームにも乗らない」と清水直子社長(45歳)は明言する(以下、発言は同氏)。
歯ブラシは、デザインが決まると金型を製作し、樹脂を材料にしてハンドルを射出成形した後、ヘッドに植毛し、求める形に毛をカット(毛切)してつくる。用途によって、ヘッドの形状やグリップのしなり、毛の柔らかさ・硬さ、カットの形状などが変わってくる。そこにファインのノウハウがある。
ファインのアイデア商品は、いずれも弱者への配慮を感じさせる。1番の人気商品は、乳幼児が誤ってのどを突き刺さないように工夫された、丸いグリップと短いネックの『ぷぅぴぃリング歯ブラシ』。その他、歯が生え始める前の赤ちゃんのおしゃぶりや歯固めにも使えるシリコン製のリング型歯ブラシ、歯科衛生士と共同開発した永久歯に生え替わる段階で使うやわらかい毛の歯ブラシなど、細やかに配慮されたアイデア商品が母親たちに重宝されている。
自分たちにしかできない商品をつくる
最近、ファインが力を入れているのが要介護者や障がいをもった人向けの介護用品である。
寝たきりや、うがいのできない人向けの吸引歯ブラシ『吸ty(キューティー)』は、歯ブラシのヘッドに吸引口のあるチューブが付いており、痰などを吸引する吸引器につないで、磨きながら歯の汚れや食事カスを吸い取る口腔ケア商品だ。このほか、口の中の状態や磨き残しを確認するため、ペンライトに装着して使う照明開口器、手首が動かせなくても歯ブラシヘッドが360度回転して歯磨きできるグリップもある。
また、1人で靴下が履きづらい人向けの簡易ソックス履き補助具、手や指が不自由な人向けに、軽くて持ち手の形状も変えられるチタン製のフォークやスプーン、頭を後ろに反らせなくても飲めるコップ、介護者が手を添えられるように取っ手が左右両方に付いたカップなど、口腔ケア以外でも、『レボ』という統一ブランド名で商品展開を行なっている。
もちろん、一般の大人向けにもユニークな商品がある。歯を意味する英語の「トゥース」が「通す」の音に近いことから、「合格祈願」の文字を刷り込んだ歯ブラシや、梵字が刷られた開運梵字歯ブラシも人気で、健康運、恋愛運、金運、幸運、仕事運に関係する梵字とラッキーカラーが入った歯ブラシが各種あり、望む運に合わせて歯ブラシを毎日変えることを提案している。
「歯ブラシは毎日、使うものですから、自分自身で運気を上げるスイッチを入れてほしいという思いから研究家と協力して開発しました。運を引き寄せるのは気持ち1つですからね」
さらに、歯科専売品のキシリトール入りのシュガーレス・グミキャンディや、非常用安全ローソク、業務用洗剤など、製品群は60種ほどにもおよぶ。
「製品開発に際しては、声をかけていただいて共同で開発することもあれば、小児歯科や嚥下(えんげ)専門の医師など、専門家の先生方からご意見をいただいて開発することもあります。いずれにせよ、私たちにしかできない商品をつくりたい。それは、ときに業界の常識を踏み外すことにもなって、ご批判をいただくこともあります。実際、吸引歯ブラシを発売したときには、否定的なご意見も頂戴しました。でも、そうした声も自然に消えました。それは、商品がお客様の役に立ったからだと思うんです。お客様の不便や悩みを解消することを第一に考えた商品開発が、当社の強みなんです」
ファインの前身は、1948年に大阪でローソク製造販売会社として創業された若松油脂化学工業所である。清水社長の父、清水益男氏の叔父が創業した会社に益男氏も勤務していた。58年から歯ブラシの製造販売を開始して、若松産業に社名変更した。
歯ブラシ製造が順調に拡大し、65年には東京に進出。73年に歯ブラシ部門を益男氏が買い取って独立。本社を東京に置いて新会社を設立し、益男氏が代表に就任した。75年には社名をファインに変更。当初は歯ブラシのOEM(相手先ブランド)を中心に事業を営んだ。
その後、業績は伸びたが、94年に益男氏が闘病のすえ、他界してしまった。経理を担当していた妻の和惠氏が代表に就任し、会社を救う大きな力を発揮する。
「母は父の看病を続けながら、経営者も兼ね、父の死後は遺品の片付けをするなどつらかったろうと思いますが、生来、アイデアウーマンだったのでしょう、様々な自社商品の展開がそこから始まりました」
和惠氏は取引先にあいさつに回りながら、自社のオリジナル商品の少なさに驚いた。ファインという自社ブランドをもってはいたが、OEMが主体で本格的な開発をしてこなかった。和惠氏は取引先や利用者の声からオリジナル商品を考案し、商品づくりを始めた。
その最初が、96年に発売したリング型歯ブラシだ。当時、幼児が歯ブラシをのどに刺してしまう事故があり、安全な歯ブラシをつくろうとリング型のアイデアを思いついた。この『ぷぅぴぃ』が翌年にグッドデザインに認定されるなど話題になり、障がい者や要介護者向けにも安全な歯ブラシがほしいという要望が寄せられる。同年、グリップが360度回転する歯ブラシを開発。発売後、さらに要望と期待の声が大きくなり、レボシリーズの開発が始まった。
執念で開発を続けた生分解性樹脂製歯ブラシ
次に着手したのが、生分解性樹脂の歯ブラシだ。ある展示会で、環境に優しい歯ブラシの試作品を見て、年間何億本も使用され、廃棄される歯ブラシにこそ使用すべきだと直感し、生分解樹脂製歯ブラシの開発に乗り出したという。だが、その開発は予想以上に困難だった。
生分解性樹脂は、歯ブラシに用いるには難しい材料だった。生分解性樹脂と紙を混合した材料で、98年に『エコット』を発売したが、熱や衝撃に対する十分な強さがなく、ヘッドにひびが入るなどのクレームに追われた。海外の生分解性樹脂も試してみたが、1年経つとヘッドが割れ始めた。OEMで販売して回収騒ぎになったこともある。当初はいろいろな固さのグレードや、ブレンドした樹脂を試したが、固すぎたり、もろかったりで植毛するとヘッドが割れてしまうのだ。また、熱に弱く、真夏の運搬中に車内の温度が60度を超すと、ヘッドが反って、毛が抜け落ちた。
「2回ほど、もうあきらめようかと思ったこともありますが、化学物質過敏症のお客様にとっては、当社の歯ブラシしか使えないという声が強く、何とかがんばってきました」
改良を続け、2000年にはポリ乳酸を原料とした『エパック:21』を発売。そのうち、ある会社からポリ乳酸と竹繊維を混合した樹脂を開発したので採用してほしいという話がもち込まれた。早速、植毛テストを行なうと、具合がいい。耐熱性や耐久性が向上したのだ。静岡産の竹を使っており、竹の生長スピードは速いので環境に負担をかけることなく、原料の心配もない。竹を微細に粉末化する技術をもった会社と提携して、08年に竹の歯ブラシ『FINEeco41』を発売した。
ところが、発売後、1年でその原料メーカーが倒産。材料を確保できなくなってしまった。同品質の竹繊維を供給できる会社は他になく、もうダメかと思われたが、2年後、ある人の紹介で原料メーカーの元社長の連絡先がわかった。連絡を取ると、設備はまだあると言う。そこで、頼み込んで、竹繊維入り材料の再供給が可能となった。世の中に役立ちたいというファインの経営ポリシーがあればこその出会いだろう。
清水社長は短大卒業後、貿易会社に勤務したが、母に説得されて90年に22歳でファインに入社した。もともと会社を継ぐつもりはなかったと言う。だが、父の他界や様々な事情が重なり、母1人に重荷を負わせることもできず、やがて事業承継の必要性を感じ始めた。だが、経営幹部として母をサポートするなかで、役割意識が強まるほど空回りし、社員に厳しく当たってしまい、社内で浮いた存在になった。
「気負いすぎたのでしょうね。リーダーとは厳しくあるべきだと思い込んでいたように思います。でも、実際は単なる『仕切り屋』でしかなかった。周囲から敬遠されるようになって、ますます声を張り上げる悪循環で、だんだん変わっていく自分自身が嫌になりました」
清水社長はオートバイ好きで、大型バイクを乗りこなしていた。ヨーロッパをバイクでツーリングしたこともあった。ちょっと会社と距離を置きたいと思った清水社長は、02年ごろ、ハーレーでアメリカを横断する旅に出た。6,000キロを2週間で走ったという。「大自然の中を走りながら本来の自分を取り戻し、自然体でいこうという気持ちになったのです」。
母への感謝を込めた花道づくり
だが、06年に、思いもよらぬ悲しみが襲う。結婚も考えていた恋人が突然の事故で亡くなってしまったのだ。そのとき、気力を失ってしまった清水社長に社員たちが優しく接してくれた。その気遣いがうれしく、清水社長は自分がこの会社を母に代わって支えると腹を固めた。
本気になった清水社長は同年、副社長に就任。母に感謝し、安心して引退できるように経営改革を進める「社長の花道プロジェクト」を始めた。和惠氏のための花道づくりである。
それまで開発も経営も和惠氏主導で進めていたが、まず会議では清水社長が司会役として社員から意見を聞き出すようにした。商品開発も、積極的に社員に関わってもらった。とくに、要介護者を含む高齢者向け商品に注力し、汎用性の高い商品開発を進めている。
一方、財務データを公開し、社員に経営状況をわかってもらうとともに、商品ごとの原価率や利益率も考えてもらうように努めた。
「母が社長を継いだときは、父の病のこともあり周囲からおめでとうなどと言ってもらう状況ではなかった。その後の母の苦労は、大変なものだったと思います。母は、単に売上が増えても喜ばない。社員が一丸となって協力し合い、社会のお役に立つ商品を開発し、売上が上がるというしくみをつくっていかないと、安心して引退できないと思ったのです」
10年、直子氏が社長に就任。和惠氏の労をねぎらうパーティーでは、社員からの感謝のメッセージなどを収録したDVDをつくって贈った。
「会社に関わるすべての最終責任者は自分」と言い切る清水社長に、もう迷いはない。
月刊「ニュートップL.」 2013年10月号
吉村克己(ルポライター)
掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。