町工場であり続け、次世代に職人の技を伝えたい(ダイヤ精機株式会社・社長 諏訪貴子氏)
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中小企業の集積地として知られる東京・大田区で半世紀近く、自動車部品用ゲージを製作するダイヤ精機の二代目・諏訪貴子社長。いま、最も注目される女性経営者の一人で、彼女を「町工場の星」と呼ぶ声も少なくない。諏訪社長が、会社を継いだ経緯と独自の経営観を語る。
ダイヤ精機の諏訪貴子社長が乾坤一擲の勝負に挑んだのは、2008年9月のリーマンショックによって、存亡の危機に追い込まれたからだった。
自動車部品向けの治具(じぐ)(機械加工や溶接の際、工作物を固定する装置)を主力としていた同社は、その直前の08年7月期、3億4000万円を売り上げていた。だが、大幅な受注減で週の半分は仕事がないほどの状況に陥り、業績が急激に悪化。翌年、年商は1億7000万円と半減した。諏訪社長は、生産体制の見直しを決断。治具からゲージへ主力の転換を図ったが、それはハイリスクな経営判断だった。
ゲージとは寸法の測定具で、その使用により製造ロスが抑えられるため、機械加工の現場では不可欠とされている。自動車業界では、部品ごとに専用の特注品を導入するのが通例であった。マイクロメートル単位(1マイクロメートル=1000分の1ミリ)の精度が要求されるが、同社はそれを手作業で実現する研磨技術をもつ熟練工を擁していた。
職人の技術が生み出すゲージは高付加価値製品で、従来、主力としてきた機械生産の治具のように、価格競争には巻き込まれにくい。しかし、1000分の1ミリを指先で感知する熟練工の技術は伝承が難しく、従業員の育成には時間もかかる。また、小さなミスも廃棄につながりかねないため、材料費が利益を圧迫する危険性も高まる。
それでも、諏訪社長はあえて技術力を前面に押し出して、自社の存在感を示す道を選んだ。数百万円を投じて生産機械を増設し、売上の2割程度だったゲージの生産を6割に拡大。さらに、世間の不況を好機と見て、技術の伝承を見据えた新規採用に注力した。自身は1年間、報酬を月額2万円に抑え、貯蓄を取り崩しながら業績の回復まで耐え凌いだ。
そうした積極的な挑戦が奏功し、間もなく業績は上向いて、翌年以降、毎年、15%以上の増収に転じた。12年は、2億9000万円まで回復している。
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もともと、私どもはゲージが専門だったんです。でも、それ1本だとリスクが高いので、機械生産ができる治具にも手を広げ、やがてそれが売上の過半を占めるようになりました。私が社長に就任したとき、ゲージからの撤退すら検討していたくらいなんです。
でも、いろいろ考えた末、続けることにしました。売上の2割くらいまでに抑えていれば、何かあっても大けがには至りません。ゲージは私どもの原点ですから、その看板だけは掲げ続けようと思ったんです。
私が2代目を継いだとき、どんな経営をめざすのか、自分なりにあれこれ考えました。その点、創業者は明快です。何よりまず自分の夢や理念があって、それに賛同する従業員によって、会社が少しずつ大きくなっていく。
ところが、2代目の場合は、すでに集まっている人たちに、あらためて自分の方針を浸透させないといけません。そのとき、先代が築いてくれた会社の土台を維持することは、決して小さくない意味があると思ったんです。私がどんな経営をめざすにせよ、それはあくまで会社の起源を残したうえでなければいけない。ゲージを続けてきたのはそう考えてのことですが、リーマンショックの影響で業績が落ち込んだとき、つくづくやめなくてよかったと思いました。
もっとも、それを治具に代わる主力にするのは、大きな賭けでした。ただ、ご承知のように、その前にはプチバブルと言ってもよいような好況がしばらく続いていて、もちろんリーマンショックのような事態は想定できなかったものの、そろそろ厳しい時代に変わるだろうという予感はあったんです。
ですから、大変な状況ではありましたが、じたばたしても仕方がない。そういう時期こそチャンスだと思って、生産機械を増設したり、空いた時間を活用してベテランが若手を指導したり、ふだんなかなか手が回らないことに力を入れました。そうして、なるようにしかならないと肚を据えたのが、よかったのかもしれません。きっと、運がいいんです。
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東京オリンピックが開催された1964年、ダイヤ精機は諏訪社長の父 保雄氏によって創業された。間もなく、精密なゲージを生み出す技術力が、高い評価を獲得。設計・提案から材料調達、検査まで、一貫加工ができることも強みに、精密金属加工メーカーとして着実に地歩を固めた。
リストラを提案し自分がリストラされる
保雄氏は一男二女に恵まれたが、長男は惜しくも6歳で早世。その後に生まれた次女の諏訪社長は、保雄氏がひそかに期待する後継候補だったが、諏訪社長自身にその意思はなかったという。
諏訪社長は、95年、成蹊大学工学部を卒業し、大手自動車部品メーカーのユニシアジェックス(現日立オートモティブシステムズ)に入社。エンジニアとして勤務した。97年、出産を機に退職したが、翌年、保雄氏の要請でダイヤ精機に入社。総務を担当し、当時、バブル崩壊後の不況で低迷していた業績を建て直すため、リストラを含む不採算部門の縮小を保雄氏に進言した。ところが、保雄氏は「ならば、おまえが辞めろ」とその提案を一蹴。諏訪社長は、わずか半年で退職した。
2年後、諏訪社長は再び保雄氏に請われて入社するが、またもや同じ光景が繰り返された。こんどは、再入社から3か月後の退職だった。
2004年、他社に勤務する夫のアメリカ転勤が決定。就学年齢を迎えた長男とともに移住することになったが、渡米寸前の春、前年に肺がんを克服したはずの保雄氏にがんが再発。間もなく、保雄氏は64歳で急逝した。
母も姉も専業主婦で、夫にとってアメリカ勤務は長年の夢だった。短期間とはいえ、ダイヤ精機での勤務経験をもつ諏訪社長以外に現実的な後継者は見当たらず、従業員や協力会社から諏訪社長を後継に推す声が上がった。悩み抜いた末、諏訪社長の2代目社長就任と夫の単身赴任が決まった。
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物心ついたころから、たぶん自分は亡くなった兄に代わる役割を期待されているんだなという雰囲気は感じていて、その期待に応えなきゃ、という意識は、常にありました。でも、そのことと会社を継ぐかどうかということは次元が違い過ぎて、現実感がなかったんですね。私自身はエンジニアとして何かの役に立てたらいいなというくらいの気持ちで、長男が生まれてからは、先代が80代まで現役でがんばって、その跡を長男が継ぐんだと思い込んでいました。
ですから、想像もしなかったほど突然だったこともあって、私には何の準備もなかったんですが、いろんな方に相談するなかで、最終的に会社を継ぐ覚悟ができたのは、従業員のおかげでした。そのとき、誰も辞めなかったんです。従業員が全員、会社に残るということで、私に対する期待を示してくれたんですね。それに対して、もし兄が私の立場だったらどうするかなと考えたとき、やるしかないと思えました。
自分に何ができるのか、まったく自信はありません。でも、会社を続けるにせよ、清算するにせよ、とにかく何らかのかたちで着地させるのが私の役割だろうという感覚でした。
継いでからはもう無我夢中で、作業服を着て会社にいると、ときどき自分はなぜここにいるんだっけと、わからなくなることもあるくらいでした。でも、継ぐと覚悟を決めてからは、心から継いでよかったと思うことばかりで、後悔したことなんて一度もない。われながら、さっぱりした性格だと思います(笑)。
よいことも悪いことも考え方しだい
実は、この立場を経験して、初めて先代の気持ちがわかったような気がするんです。リストラを提案する私を2回も辞めさせたことも、いまとなっては、察することができます。先代は、わかっていたんですね。状況から判断すれば、リストラしかないとはっきり認識していたと思います。でも、それだけはしたくないから、そうせずに済む方法を私に尋ねたかったのでしょう。
許されるなら、私もリストラを避けたいと思いました。でも、私どもの再生にリストラが不可避なのも事実で、いまもその考えは変わりません。ただ、リストラが必要なのであれば、まず自分の娘から、と考えた先代の判断も、経営者としての見識だったと思います。
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就任後、諏訪社長はまず2名の人員削減を実施した。苦渋の決断だったが、効果はすぐに表われ、わずか1か月で月次決算が黒字に転じた。
さらに、社内改革の3年計画を宣言。第1段階として、整理整頓と挨拶の励行に取り組んだ。1か月後、工場から運び出された廃棄物は4トントラック1台分に及んだ。
続いて、創業以来、40年間分のデータについてSWOT分析を進め、自社の強みが技術力にあることを確信。だが、それが一面的な分析でしかないことに気づき、諏訪社長は長年の取引先に自社の強みを尋ねて回った。その結果、取引先は意外にも同社の柔軟な対応力を評価している事実が判明する。対応力の強化を課題とした諏訪社長は、従来の生産管理システムの改変を計画し、05年、バーコードによる工程・原価管理システムを導入した。
このシステムにより、数千枚の設計図面と1万種類以上の製品の一元管理が実現。納期短縮やコスト削減につながり、収益率も改善された。諏訪社長は、自社の成功事例を積極的に公開しており、現在、大田区内の6社が同システムを導入している。
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私が2代目を継いだとき、戸惑いながらも、ふと冷静になって、周囲の様子をうかがってみたんですね。すると、もしかしたら自分はラッキーなのかもしれない、と思えてきました。
当時、私は32歳です。経営を教えてくれるはずの先代も、もういません。しかし、わからないことがあれば、素直にそう白状して、周囲のどなたかに尋ねればいいんですね。幸いにも、それが許される年齢と環境だと気づいたんです。もし、私が50歳で継ぐことになるとしたら、「わからない」なんて口にできないかもしれません。
何ごとも考え方しだいで、世の中には絶対に悪いこともなければ、絶対によいこともない。そのことを実感したとき、少し気が楽になりました。
同じように、先代が残してくれた会社が「ダイヤ精機」であったことも、私にとってはラッキーでした。
「ダイヤ」という社名には、少し女性的な印象もあります。継いだときは20数名で、いまは37名ですが、少数精鋭であることに変わりはなく、おかげさまで、お客様に必要とされる技術力をもっています。小さな町工場だからこそ味わえる、ものづくりの醍醐味もあります。本心から、町工場でよかったと実感しているんです。
もちろん、大企業には大企業のやりがいがあって、最終製品をつくる喜びは格別でしょう。でも、町工場にも大企業とは別の役割があって、大企業と町工場が互いに補完しあう協力関係は、日本のものづくりの強さを端的に表わしているのではないでしょうか。大きな石だけでなく、小さな石もあるから、強固な石垣ができるのでしょうね。
次の世代に私どもの技術を引き継いでいけるよう、私どもは今後も町工場であり続けたいと思っています。
月刊「ニュートップL.」 2013年5月号
編集部
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