扱いやすいリヤカー「軽car(カルカー)」で地方発のものづくり力を証明したい(株式会社中村輪業・社長 中村耕一氏)
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中村輪業がオーダーメイドで製作するリヤカーが、宅配業者などから注目されている。ふとしたきっかけから中村耕一社長が開発し、「軽car」と名づけられた新しいリヤカーは、いま全国で700台以上が活躍しているという。中村社長が、開発のきっかけや発売当初に味わった体験を語る。
長崎県南島原市の中村輪業はもともと自転車販売店だったが、中村耕一社長が製作を始めたリヤカー「軽car(カルカー)」が評判となり、大手宅配業者をはじめ、様々な企業から注目されている。
中村社長が「軽car」の製作を思い立ったのは、2003年ごろだった。以来、1年近くの間、試行錯誤を重ねて試作品を完成させたが、当初はまったくと言ってよいほど売れなかったという。
ところが、数か月後、中村社長の奮闘ぶりが地元紙に掲載されると、反響は大きく、ヤマト運輸から配達業務用として100台を受注した。リヤカーは、一方通行が多いビジネス街や道幅の狭い住宅街での配達に便利なうえ、燃料代が不要で、二酸化炭素を排出しないことも評価されたのである。
その後も「軽car」に注目する企業が相次ぎ、同じく宅配大手の佐川急便や「オフィスグリコ」を展開する江崎グリコ、ヤクルトなどからも受注。また、某テーマパークからの発注でパレード用の特殊な三輪自転車を製作したり、保育園の依頼を受け、遊具として小型リヤカーを製作したこともあった。
「軽car」が従来のリヤカーと異なるのは軽さと扱いやすさで、フレームには剛性を維持しながら軽量化を実現する金属素材を採用。車輪の位置を微妙に工夫して、「てこの原理」を最大限に応用した。基本的に、商品はすべて顧客の要望を反映したオーダーメイドで、同社は三次元CADにより設計から製造までを手がける。
主力は三輪自転車と一体になったタイプだが、通常のリヤカータイプから電動アシストつきまで対応し、価格はいずれもオープン価格。納入実績は100社を超え、現在、全国で700台以上の「軽car」が活躍している。
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1979(昭和54)年に親父が仕事を始めたとき、うちはバイク屋だったんです。修理もできたので、最初のころはよく売れたらしいんですが、時代の流れと言いますか、だんだん売れなくなってきて、そのうち商売替えをして自転車屋になったけれど、親父は細々と営業を続けていたようです。
廃業を覚悟するも「軽car」で復活
そうしたなかで、95年、私が28歳のときに家業を継いだのですが、その後も毎年、売上が一割ずつ減っていくような状態で、7年経った2002年ごろには半減していました。正直、もうダメだと思いました。
子供の数が減って、お客様と言ってもお年寄りばかりだし、そもそも人がいない。親父には店を閉めることを許してもらって、私は就職先を探し始めました。
でも、この島原半島には働き口もありませんから、単身赴任を覚悟で佐世保や福岡あたりまで範囲を広げて採用試験を受けたものの、なかなか採用してもらえませんでした。
6回も7回も不採用通知を突きつけられると、さすがに落ち込みます。気がつけば、海を眺めていることが多くなっていました。道路を挟んで、店の目の前が島原湾なんです。まいったなあと思いながら、その日もぼんやりと海に目を向けていました。
すると、ゴミ袋を積んだ一輪車を押しながら、道路をよたよたと歩いてくるおばあちゃんの姿が私の視界に入ってきました。もちろん、昔からよく知っている方で、ゴミを捨てに行くところだったようですが、鉄製の一輪車は重く、いまにも転びそうなんです。
リヤカーで運べばいい、と声をかけたのですが、リヤカーみたいな重いものは使えない、と言い返されました。
「おいがつくってやるけん」
思わず、そう言ってしまったのが、そもそもの始まりです。いったん口にしてしまった以上、頬かぶりするわけにはいかないし、もしつくることができなかったら、狭い地域ですから、何を言われるかわからない(笑)。
それからリヤカーの構造や鋼材について勉強したり、知人に頼んで溶接の技術を教えてもらったりして、高齢の女性でも扱えるリヤカーを研究し始めました。仕事の片手間につくってあげようという程度にしか考えていなかったのですが、難しかったですね。
設備がありませんから、金属製のパイプは素手で曲げました。自転車のタイヤに空気を入れるエアコンプレッサーの部品をはずして、そこにパイプを押し当てて、ぐっと力を込めると、わりときれいに曲がるんです。もちろん、何百回と失敗しましたけれど。
また、伝手をたどっていろんな専門家に教えを乞いましたが、どなたも例外なく驚きました。いまどきリヤカーなんて正気か、と。そうした反応は、試作品が完成してからも続きました。
ただ、約束したおばあちゃんに試作品を届けると、「軽かねー」と喜んでくれました。販売を始めてからも、実際にリヤカーを手にした方は「軽かー」と感心してくださって、そうした声がどれほど励みになったかわかりません。感謝の気持ちを込めて、「軽car」と名づけました。
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中村社長は66(昭和41)年、義兄が経営するオートバイ販売店に勤務していた父武久氏の長男として生まれた。姉と妹との3人きょうだいで、のちに父が独立してからは、自然と家業を意識するようになったという。
手先が器用で、幼いころから機械いじりが好きだったことから、長崎県立島原工業高校機械科に進んだ。大学は親元を離れて久留米工業大学に学び、卒業後、福岡市の自動車ディーラーに就職。7年間、メカニックとして働いた。
その後、父の要請もあって、95年に退職して帰郷。父とともに家業の業績向上に努めたが、過疎と高齢化が進む小さな町の自転車販売店に将来性を見出すことはできず、やむなく廃業を覚悟するに至った。
だが、04年に開発した「軽car」のヒットで危機を乗り越えると、中村社長が新事業に専念する間、父が続けてきた自転車販売業を徐々に縮小し、08年には法人化して「軽car」の製造・販売に転換。リヤカーの復権と家業の再建を果たした。
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私が「軽car」の開発に取り組み始めて、ヤマト運輸の担当者さんからご注文をいただくまでの間は、親父にも家族にも、本当に苦労をかけたと思います。わずかな蓄えを取り崩してリヤカーをつくるだけでも、世間様の常識からすれば「変人」です。それなのに、朝6時から夜中3時くらいまで、日曜日も祝日もなく、毎日、どこかへ出ていく。正気の沙汰ではありませんよね。そうした生活が、半年間は続いたでしょうか。
実は、軽トラックに「軽car」を積んで、長崎県内をあてもなく回っていたんです。離島を除いて、県内はほとんど隅々まで訪れたと思います。
しかも、われながらおかしな男だと思うのですが、売るというより、それを必要としている方々に届けるべきだと、真剣に考えていたんですね。畑で農作業をしている方や港に釣り竿を垂らしている方がいると、島原からきました、と声をかけて、「軽car」の軽さを体験していただく。でも、買っていただこうなんて考えていないので、「軽かねー」という言葉を聞くことができれば、それで満足でした。
そして、日が暮れたら、こんどは飲食店におじゃまします。お許しをいただいたら、店内に手づくりのチラシを貼らせてもらう。追い返されることも多かったけれど、そうした日々が、どういうわけか楽しかったんです。
出口のないトンネルはない
いまも忘れられないのは、その年のランタンフェスティバルです。毎年、長崎市内の中心部で行なわれるイベントで、100万人の観光客が訪れるといわれますが、期間中のある日、市内でも最も繁華なアーケード街を「軽car」を引いて歩きました。しかも、荷台には私の子供を3人乗せていましたから、ずいぶん目立ったと思います。3人とも嫌がっていましたが、とにかく「軽car」の存在を広く知っていただくためなら、何でもしました。
そうして、ちょうど半年ほど経ったころ、すでにもう何回もお訪ねして顔見知りになっていた農家のご主人に、初めて「軽car」をご購入いただきました。うれしかったですね。心を込めて、全力でつくりました。
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江戸時代の大八車にルーツをもつリヤカーは、大正時代、日本人によって考案された。一時はわれわれの日常から姿を消したが、それを現代によみがえらせた「軽car」は、日本におけるものづくりの伝統を体現しているようでもある。その商品力が各方面で好評を博し、成長軌道に乗った中村輪業の年商は1億円に迫った。
だが、同社は再び思わぬ試練にさらされることになった。11年の東日本大震災により受注が白紙に戻り、損失を被ってしまったのだ。資金繰りが圧迫され、事業は一時的に縮小せざるを得ず、8名にまで増えていた従業員は2名に削減した。そうした苦境にあって、中村社長は被災地の宮城県南三陸町に「軽car」を30台、寄贈した。
震災の影響は大きかったが、「軽car」を評価する声は依然として高く、景気の回復に従って、現在では受注状況も回復しつつある。
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大震災後は、最悪の事態も考えたほどでした。正直に告白すると、受注が白紙に戻ったことで、取引先を恨めしく思ったこともあります。でも、それからしばらく経ったころ、心の中で取引先を一方的に責め続けている自分に気がついて、急に情けなくなりました。誰かがあっけなく左右してしまうほど、自分の人生って弱かったのか、と。
そんなはずはない、と思いました。取引先はともかく、私にも落ち度があったはずなんですね。
実際、仕事をいただくと、深く考えもせず製作に取り組んでいたけれど、それは次もまた仕事をいただけるだろう、という根拠のない思い込みがあったからです。一種の惰性でしょうね。そんな気の弛みがなかったらキャッシュフローにも配慮したはずで、1つひとつの取引に慎重さを欠いたのは、やはり私の責任なんです。自分を棚に上げて責任を外部に求めていても、経営者としての成長はありません。授業料は高くついたけれど、よい勉強になりました。
一時は目の前が真っ暗になって、再び光が差すことはないとさえ感じました。でも、トンネルには入口があれば出口もある。たとえ光が見えなくても、走り続けていると、なんとなく空気のゆらぎが感じられて、そのうちはっきりと風を実感できるんです。風さえ感じられればしめたもので、そちらに向かって走っていくと、いつか必ず光が見えてくる。どんなに長いトンネルにも、必ず出口があることを学んだような気がします。
苦しいときほど、ブレてはいけない。経営者にとって最も大切なことは、どんなに不安でも、自分を信じ続けることだと思います。「軽car」を多くの人に喜んでもらって、過疎の町でも全国に通用するものづくりができることを証明したいですね。
月刊「ニュートップL.」 2014年8月号
編集部
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