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ファミリーとしての一体感で赤字からのV字回復を実現する(大峰堂薬品工業株式会社・社長 辻 将央氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


創業100年を超える漢方薬メーカーの五代目として社内の改革に取り組み、成功させた辻将央社長。現在、7期連続の増収を継続している。赤字に転落した老舗の体質を改善した辻社長が、その取り組みと改革への情熱を語る。

いわゆる漢方薬の業界を激震が襲ったのは、1996(平成8)年のことだった。その年、厚生省(当時)の報告で漢方薬による副作用問題が発覚。業界の市場規模の目安となる「漢方製剤等生産金額」は、前年比11.5%のマイナスに転落した。

92年の1848億円をピークに、バブル崩壊後、縮小に転じていた漢方薬市場は、副作用問題によってさらなる苦境に陥り、98年にはピーク時の60%弱まで減少。2000年代に入って回復基調に転じたものの、1366億円(10年)と、まだ最盛期を回復するには至っていない(以上、日本漢方生薬製剤協会より)。

長年の特定客を中心に堅実経営を続けてきた大峰堂薬品工業も、危機的な状況に陥った。年々、業績が悪化し続けるなか、副作用問題の影響が波及して、前年の29億円から21億円に売上が急落。その後も業績不振が続き、04年には初の赤字を計上した。

しかし、同社五代目の辻将央社長は危機的状況を社内改革の好機と見て、次々に大胆な施策を断行。翌年には、早くも黒字を回復した。その後も好調は維持され、現在まで7期連続の増収。その間、売上は1.7倍に拡大した。

◇    ◇    ◇

「ゆでガエル」という、よく知られた寓話がありますね。赤字に至るまでの私どもの状況は、まさに「ゆでガエル」そのものだったと思います。

副作用問題が騒がれたとき、前年の3分の1近い売上が吹っ飛んでしまったわけですが、そのときを除けば、業績はよくも悪くも安定していました。目に見えて売上が大きく落ちていくことはないけれど、毎年、緩やかに減っていく。それでも、黒字なんです。そういう状況が、10年くらい続いたでしょうか。

そうしたなかで、社内の誰も業績不振に気づかなかったわけではありません。むしろ、会議の席などでは、口を揃えて「大変や」と言う。「なんとかせなあかん」とも言っていました。でも、本気でそう思っていたわけではなかった。長く続いた安定のなかで、知らず知らずのうちに傲慢や怠惰が社内にはびこっていたのでしょうね。恥ずかしながら、本当にひどい状況だったと思います。

ところが、最もひどかったのは、結局のところ、私自身だったんですね。リーダーである私が、心の底から危機を感じていなかった。赤字になって、ようやくそう気づいたのですから、われながら情けない話です。

従業員の3分の1を占めた管理職を半減させる

実は、それまでもいろいろ手を打とうとはしていました。古い会社ですから、いろんなところによどみが生じます。いつの間にか慣習になってしまった非合理もあって、自分なりに「おかしい」と感じる点については、あらためていこうとはしていたんです。でも、私の提案に誰も耳を貸してはくれませんでした。笛を吹いても、誰も踊ってはくれない。「余計なことを」と、私を苦々しく感じる雰囲気が痛いほど伝わってきて、もともと楽天的な私も、この時期ばかりはさすがに気が滅入りました(笑)。

私だけが懸命に改革しようとしても、誰もついてきてくれないなら、どうしようもない。つまり、改革できないのは従業員に原因がある。そんな思いにとらわれ始めていると、ついに赤字に転落しました。そのとき、本当に後悔したんですね。「なぜ、無理にでも自分の意見を通さなかったんやろう」「どうして従業員はわかってくれなかったのか」と、悔やまれることがたくさんあって、本当に夜も眠れませんでした。

そうして、2週間くらい、ずっと考え続けたでしょうか。すると、はっと気づいたんです。誰も動いてくれなかったのは、私が信用されていなかったからではないか、と。私の言葉には、彼らの心に届くほど強いメッセージがなかったのではないのか。そう気づくと、いてもたってもいられない気持ちが募って、私自身の人間的な成長が急務だと思うようになりました。

そんなとき、たまたまご縁があって、京セラの創業者である稲盛和夫さんが主宰する「盛和塾」に参加することができました。そして、数千名の若手経営者が参加する世界大会に出席させていただきました。その会場で稲盛さんの講話をうかがっていると、従業員の成長はトップの器しだいとおっしゃるんですね。トップが私心のない清らかな心で接すれば、必ず従業員と響き合うことはできる。頭をガツンとやられたようで、しばらくの間、涙が止まりませんでした。

◇    ◇    ◇

辻社長は1968(昭和43)年、奈良県大和高田市に生まれた。家業の大峰堂薬品工業は、1900(明治33)年に曾祖父利吉氏が創業した「行者本舗大峰堂辻利吉」が前身で、二代目の祖父清六氏が47(昭和22)年に法人化。父は三代目成典氏で、長男の辻社長は自分が四代目を継ぐことを疑わなかった。小学生のころ、将来の夢を「あとつぎ」と書いた作文を覚えているという。

ところが、79(昭和54)年、交通事故により成典氏が39歳で急逝。社長就任からわずか3年後で、急遽、二代目夫人の祖母滋子氏が四代目を継ぐ。しかし、滋子氏は当時、すでに65歳。

専業主婦からの転身でもあったため、経営の実務は親族の役員などに委ねられ、滋子氏は社内の結束を象徴する精神的支柱となった。
その後、辻社長は91(平成3)年に立命館大学経営学部を卒業。祖母が守る家業への入社が待望されたが、他社での社会経験を希望した辻社長の意向もあって、同年、経営コンサルティングや社員教育の大手として知られるタナベ経営に入社。営業部門に配属され、2年近くの間、東北支社(仙台市)に勤務した。

93年、同社を退職し、大峰堂薬品工業に入社。一般社員として営業部門に勤務ののち、取締役、常務取締役を経て、2000年、五代目を継いだ。「ゆでガエル」の釜はいよいよたぎって、業績は悪化の一途であった。

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会社を変えていくにあたって、私はまず全従業員を「ファミリー」と位置づけることにしました。社員もパートも、年長者も新入社員も、縁あって同じ会社で働く家族です。その前提で、私は全従業員に「何があっても絶対に守ったる」と宣言しました。家族ですから、その生活を守るのは当然ですよね。

そして、従業員にもそうした考え方を訴えました。われわれ凡人は、自分のために発揮できる力なんて、たいしたものではありません。でも、大切に思う人のためなら、意外なほど大きな力が発揮できる。疲れて帰ったとき、独り暮らしなら、いくら空腹でも食事の支度が面倒に思えて、そのまま寝てしまいますよね。でも、そのときに恋人が病気で臥せっていると知らされたら、自分は食べていなくても、何かおいしい料理をつくって元気づけてやろうと思う。同僚を思いやる気持ちも、それと似たものでしょう。お客様にも、そういう気持ちで接してほしい。機会あるごとに訴えて、ファミリーとしての一体感の醸成に努めました。

それと並行して、組織改革にも取り組みました。当時、100名足らずの社員中、管理職が30数名いましたから、明らかに過剰です。それでも、管理職全員がマネジメントに適しているなら話は別ですが、必ずしもそうではない。技術的に優秀な人材などをそれなりに遇するため、管理職に昇格させるケースが少なくなかったんですね。きっと、そういう会社は少なくないと思います。

でも、そうした意味での昇格は、本人のためにはなりません。苦手なマネジメントで評価されるより、得意な仕事で評価されたいはずなんですね。彼らの部下にとっても、そんな上司のもとで働くのは不幸でしょう。そこで、全管理職と個別に面談し、本人の希望を聞き取りました。そのうえで、希望者には専門職としてのキャリアに転じてもらいました。

このとき、気をつけたのは専門職の地位です。ラインから脱落するような印象をもたれるのは不本意ですから、給与水準は管理職と同等にしました。そして、むしろ技術を担う専門家として社内で尊重されるよう、私自身も敬意をもって接するよう努めました。そうして、結果的に管理職は半減しました。組織としての指揮命令系統がすっきりし、責任と権限の所在が明らかになったと思います。同時に、生産部門の強化にもつながりました。一石二鳥ですね。

◇    ◇    ◇

業績回復のための直接的な改革にも、辻社長は自ら積極的に乗り出した。
売上の拡大をめざして、最大で2倍もの値上げを断行。顧客であるOEMの供給先には辻社長自ら理解を求めて日参したが、それでも顧客の2割近くが離れていった。しかし、辻社長が率先して新規開拓に努め、獲得した新たな取引によって減少分を補った。営業方法も見直し、営業担当者が客先を訪問する際は、基本的に技術者の同行を義務づけた。これにより、部門間の連絡や顧客ニーズへの対応がスムーズになり、製品開発のスピードも向上した。

また、経費の圧縮にも着手。社員に意識改革を促して残業時間の抑制に取り組んだほか、製造コストなどの全面的な見直しで目標数値を達成。一方、黒字回復の際の決算賞与を約束し、実際に支給している。

そのほかにも、1泊2日の社員研修の実施や誕生日休暇制度の創設など、次々と辻社長のカラーを打ち出した。化粧厳禁の工場勤務女性を対象にしたメイクアップ教室の開催は、辻社長の従業員に対する細やかな配慮をうかがわせる好例かもしれない。

赤字になったのを機会に、会社を大きく変えていこうとした際、目標に掲げたことがあります。2019年までの15年間で100億円を貯める、ということなんです。

改革とはコツコツと石ころを運ぶようなもの

私どもの全従業員を150名としますと、それぞれに自宅を建築するには一人あたり3000万円として、45億円ですね。私どもの工場を再建するのに、おおよそ35億円。一人あたり1200万円強あったら、贅沢しなければ家族で3年くらいは暮らせますから、全従業員の生活費でだいたい20億円。合計で100億円です。「何があっても絶対に守ったる」と約束した手前、想定外の天災が起こっても、彼らの生活を守らなければいけません。従業員の協力で、いまだいたい4割くらいは貯まったでしょうか。これだけは、絶対に実現したいと思っているんです。

赤字からは脱したものの、まだまだ私どもは成長過程にあります。会社を変えていこうという取り組みも、まだ道半ばですが、振り返ってみると、改革というのは日常の小さな変化の積み重ねでしかないと、つくづく思いますね。河原の石ころを一つひとつ運んで石垣を組んでいくようなもので、最初は私が一人でコツコツ石ころを運ぶしかありません。その姿は、おそらく不格好だったと思うし、せっかく積み上げた石ころが崩れて、また一からやり直すこともありました。

でも、そうしているうち、必ず仲間が現われます。やがて、一人また一人と仲間が増えていくと、こんどは仲間が仲間を連れてきてくれる。そうしてすべての従業員が仲間に加わってくれたとき、改革の第一段階が終わる。そこからが本当の改革の始まりなんですね。

そう考えると、私どもではまだ始まったばかりで、これからが本当の勝負だと思っています。100年以上にわたって多くの先輩が築き上げてきてくれた会社ですから、目先の成功におごらず、より強い体質に改善し続けて、次の世代にも引き継いでいきたい。そうすることが、労を惜しまず協力してくれる従業員の幸福にも直結すると信じています。

月刊「ニュートップL.」 2013年1月号
編集部


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