「人」と「機械」の棲み分けで多品種単品の無人加工システムを築く(山本精工株式会社・副社長 山本昌作氏)
キラリと光るスモールカンパニー掲載内容は取材当時のものです。
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自動車メーカーの下請けだった油まみれの小さな鉄工所を、加工技術の徹底したデータ化と標準化によって、誰も真似できない多品種単品のアルミ加工メーカーに変貌させたのが、山本精工の山本昌作副社長だ。社員は昼間、加工のためのプログラムを作り、夜間、最先端のマシニングセンターが加工品を作り出す完全無人化の「ヒルトップシステム」で業界の注目を集めている。
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京都府宇治市の製造業が集積する地に、ひときわ目を引くショッキングピンクの壁をもつ円筒形の建物が佇んでいる。壁に「HILL TOP」のロゴを掲げたこの建物は山本精工の本社・工場だ。
エントランスはまさにホテルのロビーのよう。社員食堂に入るとさらに驚く。広々としており、デザイン性の高いインテリアに彩られた食堂内は、おしゃれなレストランそのものである。山本昌作副社長(56歳)は、「面接のために訪ねてきた学生たちがここを見ると本気で入社したがるんですよ(笑)」と語る(以下、発言は同氏)。
同社はアルミ加工メーカーだが、その中身は建物や社食同様、型破りだ。工場内には最先端の五軸マシニングセンターなどが何台も並ぶ。しかし、作業員の姿はまばらで、マシンはわずかしか稼働していない。
仕事がないのかと思いきや、さにあらず、この工場が本格的に稼働するのは夜なのだ。社員の帰宅後にマシンが動き始め、社員が出社するまでに加工製品ができあがっているという夢の工場なのである。
ただし、マシンが設置されている工場は山本精工の“舞台”ではない。社員本来の職場は、IT企業かと思うようなオフィスである。カラフルで整然としたオフィスの中で、ラフな姿でパソコン画面を凝視する若者たちこそがマシンを操る主役なのだ。
一般的な工場であれば社員は、作業員あるいは職人と呼ばれるだろうが、同社では「プログラマー」がその名称である。プログラマーが昼間に加工手順をマシンに命令するプログラムを設定、退社時にマシンに材料をセットしスタートさせる。
厳しいコストダウン要求から下請け仕事をすべてやめる
同社は精密機械部品からマイクスタンドまで、アルミ加工製品ならどんなものでも単品・少量で請け負う。リピート注文であれば、受注から最短3日で納品するという。
このスピードを実現しているのが夜間・休日を問わず動く「多品種単品無人化加工システム」である。同社ではこれを「ヒルトップシステム」と呼ぶ。この名称には「丘の上」をめざして夢の工場を築いてきた山本副社長の思いが込められている。
「私にとって、工作機械はプリンターやコピー機と一緒。いわゆる出力装置です。当社の主役は人。加工プロセスをすべてプログラミングしているので、大量生産するように少量多品種生産できる。平日の夜はもちろん休日でも機械は動き続けているのだから、利益が出ないわけがありません」
同社の売上高利益率は3年前まで20~25%だった。通常、この業界では平均3~5%、高くて8%と言われているなかで、同社の利益率は驚異的だ。過去2年ほど新事業へ投資し、昨年度には10名もの新卒を採用したので、利益率は20%を切ったが、同社の収益力にかげりは見えない。リーマンショック後、一時売上は落ちたが、いまはそれ以前の水準に戻っているという。
「私は、日本から大量生産のニーズは消えたと思っています。これからの中小企業は多品種少量で生き残っていくしかない。講演などをさせていただく機会も増えましたが、そうした場では経営者に対して『ロットサイズを一桁落として利益を上げることを考えましょう。そうすればイノベーションが起きる』とお話ししています。ニーズの変化に対応できなければ、日本の中小企業は大変なことになると思うからです」
山本精工もいまのような企業体質に変えるまでには相当な努力と時間を必要とした。
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同社は山本副社長の父が1961年に創業した鉄工所が前身だ。実は昌作氏の兄が幼少時の投薬の副作用から全聾(ぜんろう)になり、わが子の将来を憂えた両親が家業を起こしたのだ。自動車の部品加工を行なう町工場として両親はともに油まみれになって働き、山本副社長も高校生になると手伝っていたという。現在、同社の社長はその兄であり、昌作氏が副社長を務める。
「従業員が5、6人ほどの工場で、孫請けの仕事を引き受けていました。工場内は昼間でも薄暗く、母親は前掛け代わりに新聞紙をはさみこんでいた。それほど油でよごれるんです。そんな工場を継ぐ気はありませんでした。大学卒業後には商社への入社が内定したのですが、母に泣きつかれて仕方なく家業を手伝うことにしました」
山本副社長は77年に入社したが、日々繰り返される単調な作業が苦痛だった。ネジ締め作業で腫れ上がった母の両手を見て、テコの原理で軽く締め上げられる治具など、様々な道具を作った。息子の気持ちを理解はしても、父はしばしば「カネにもならん仕事をするな」と戒めていたという。
そのうち、親会社からのコストダウン要求が厳しくなってきた。毎年のように5%ダウンを求められる。山本副社長は父に何度も取引を停止するように進言した。売上の8割を占める取引だったが、当時の状況を脱したいという一心で父を説得し続けた結果、父も折れ、下請けをやめた。
工場内の大半の機械がなくなり、代わりにNC旋盤を入れた。少品種大量から多品種少量・単品生産へと舵を切り、山本副社長は営業にかけずり回った。
「楽しみながら仕事をやりたいし、楽しくなければ仕事じゃない。楽しいというのは知的作業のことです。人はルーチン作業だけでは楽しめません。知的作業が2割ほど必要なんです。そのバランスを取ることをずっと考えてきました。だから、当時から社員に『将来は白衣を着て仕事するぞ』と言っていましたが、誰も信じていなかったと思いますね」
社員の反発のなか技能のデータベース化を断行
次第に単品の仕事は増えたが、それだけでは知的作業にはならなかった。リピート注文が入ると同じことを繰り返すからだ。そのムダを省くにはルーチン作業をプログラム化し、機械に加工させればいいと山本副社長は考えた。人の技能やノウハウをデータベース化し、社員にはさらにステップアップした知的作業をやってもらう。
「鉄工所っていいねと、みんなから言われる会社にしたいと、まさにヒルトップをめざして活動を始めたのです」
山本副社長にとってのヒルトップは、人が知的作業に従事できる完全無人化の夢の工場だった。82年から山本副社長は町工場を根本的に作り替え始めた。
製品ごとに加工工程を細分化、分類し、ベテラン技能者から聞き取り調査をした。ある製品のアルミを削るにはどの刃物をどのような順番で使って、どのような位置から何回転のスピードで何分間回すのか。技能者たちは当初、ノウハウを言わなかったが、山本副社長が根気強く説得し続けると徐々に口を開くようになった。
すると、人によってやり方が少しずつ違うことがわかったので、それぞれの言い分を戦わせながら山本精工としての標準値を導き出した。
同時に作業環境のデータベース化も行なった。工作機械やツール、刃物、ボルトなどすべてに認識番号を振り、収納場所と関連づけた。通常、過去の加工品の設計図と使用ツールは保存してあっても、どのツールをどの順番で使ったかなどの情報は残っていない。だが、ヒルトップシステムでは作業を再現できる全データを保存している。
一年かけてデータベース化を行ない、そこから実際にプログラムを作り機械に作業させる段階に入ったが、ここで社員から大反発があった。山本副社長が「加工中に機械の前に立つな」と命じたからだ。
「通常は就業時間の8割が機械の前、2割が机での作業ですが、これを逆にしました。プログラムを作り、工場で機械を始動させたら帰宅しろ、工場に残るな、と何度も言いました。いまでは社員を監視しないことが私の信条ですが、導入当初の1年半は監視し、鬼のように命令し続けました」
だが、翌朝出社すると社員は悲惨な現場を何度も目にした。刃物が折れたり、材料を固定するツールなどが壊れている。ひどいときには機械そのものが破損し、多額の修理費がかかった。「納期も迫っているし、いい加減にこんなことはやめましょう」と何度も社員から声が上がり、我慢できずに直接、工作機械を操って加工を始める社員もいたが、山本副社長はあきらめなかった。
プログラムを何度も修正し、少しずつ精度を上げるうちにシステムが軌道に乗り始めた。すると、リピート注文があっという間に完成することが実感できるようになり、社員も信頼を寄せるようになった。ヒルトップの原型は2年半を要して完成し、その後は改善を繰り返し、精度を高めていった。
2003年、山本副社長は工場で起こった出火を消そうとして大やけどを負った。そのとき臨死体験し、寿命はあと3年と覚悟したという。その3年の間にヒルトップをさらに進化させようと邁進し、07年に現工場を新設。それが冒頭の建物だ。
昨年度、1000名の応募者から採用した社員10名は、ヒルトップシステムと綿密な短期集中の研修により、半年も経つと他社のベテランクラスの仕事をするようになった。ベテラン社員は開発や企画、設計などさらに上流の仕事をする。ロボット開発のために子会社も設立し、二輪のテーブル型ロボットやハイビジョンの遠隔コミュニケーションシステムも開発中だ。自社ブランドの装置製造や販売部門も新設した。
「製造業は重心をものづくりからサービス業に変えていかないと生き残れない」
山本副社長率いる山本精工は、時代の変化に合わせ、さらに前進し続けていく。
月刊「ニュートップL.」 2011年4月号
吉村克己(ルポライター)
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