雇用の確保でモチベーションを高め、「脱子会社」「脱赤字」を実現する(株式会社日本レーザー・社長 近藤 宣之氏)
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親会社からの「天下り」で日本レーザーの社長に就任した近藤宣之社長。倒産寸前の危機を脱し、就任以来、19期連続黒字を継続している。また、2007年には国内で成功例の少ないMEBOを実施して、親会社からの独立も果たした。近藤社長が、その経営観とこれまでの歩みを語る。
レーザー機器専門商社の日本レーザーが債務超過に陥り、倒産の危機に見舞われたのは、1993年のことだった。
バブル経済の崩壊後、経営環境の変化に対応できず、業績が低迷。顧客の減少と受注不振によって、3期連続の赤字に沈んだ。93年当時の累積債務は、約1億8000万円。しかし、メインバンクは新規融資に応じることなく、暗に破綻処理を求めた。
窮した経営陣は、親会社である日本電子(電子顕微鏡等開発・製造、1946年創業、東証一部上場)と対策を協議。同社からの貸付で当面の資金を手当てしつつ、翌94年、新たに同社から社長を迎えて、再建を託すことになった。
白羽の矢が立てられたのは、取締役営業副担当であった近藤宣之社長。当時、役員中最年少の49歳。労働組合執行委員長を11年間務めたリーダーシップと長い海外生活で培われた海外人脈や語学力、国内市場も経験した営業実績などが評価されてのことだった。
だが、就任早々の近藤社長に強烈な逆風が吹きつける。次期社長就任に意欲を示していた役員らが、親会社からの「天下り」に反発して独立。売上の上位を占めていた海外の有力商権を奪われ、社員数名を引き抜かれてしまった。
想定外の事態に再建の頓挫も懸念されたが、近藤社長は着々と合理化に取り組み、販売先の新規開拓も実現。1期目を約2000万円の黒字で終えた。
さらに、翌期も黒字を達成し、累積赤字を一掃。4期目となる97年には、不良資産の除却を完了し、B/S上でも完全に再建を果たした。近藤社長の就任以来、日本レーザーは研究開発部門を独自に擁する技術力を強みに、現在まで19期連続の黒字を継続している。
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身も蓋もないことを言ってしまえば、世の中というのは思い通りにいかないわけです。すでに起きてしまったことを恨んだり、悩んでも仕方がない。すべては運命の必然であったと、受け入れるしかないんですね。受け入れたうえで、それを克服すべく工夫を重ね、努力する。そうして乗り越えることができたとき、身に降りかかった難題が、実は自分を成長させるための試練であったと意識のなかで昇華されて、再び新たなテーマに挑戦することができる。人生とは、その繰り返しなのではないでしょうか。
日本レーザーを再建せよというお話をいただいたのは青天の霹靂でしたが、私にほとんど迷いはありませんでした。簡単ではないだけに、挑戦に値する仕事ですから、全力で取り組んで、とにかく再建してみせるという意識しかなかったように思います。
ところが、ここに骨を埋める覚悟まではなかった。再建できれば、その実績を手土産にして、また親会社に戻るつもりでいました。でも、肝心の社長が腰掛けのつもりでいて、倒産しかけた会社が立ち直るはずがない。いくら立派な方針を打ち立てても、従業員は本気でそれに従わないでしょう。そもそも、そんな社長のもとで働かされる従業員がかわいそうです。そう気づかされたのは、恥ずかしながら、ちょうど1期目の黒字を達成するころでした。
ある日、従業員同士が話す声が聞こえてきたんです。「ばかばかしいよなあ」と言っているんですね。
「ウチを再建したら、それを勲章にして、どうせ本社に戻るんだろ? 戻ったら、社長の有力候補じゃないか。近藤さんはいいよなあ」
たしかに、彼らにしてみれば、ばかばかしい。私の実績づくりのために、利用されているようなものです。このとき、私は兼務していた日本電子の取締役を退任することに決めました。それから3か月後、正式に退任したことを全従業員に報告したら、みんな心から驚いたようでした(笑)。
粗利重視に転換し、財務体質を改善する
社長に就任して、私はまず全従業員に雇用を守ることを宣言しました。私の方針に賛同できなければ辞めてもらっても構わないけれども、自分が社長である限り、絶対に解雇はしない。雇用不安を解消することが、従業員のモチベーションの安定と向上に不可欠であることを、私はそれまでの経験のなかで痛感してきたからです。
その一方で、家族手当や住宅手当を廃止して、従業員の「既得権」にも切り込みました。同時に、年功序列型の退職金制度を刷新し、給与や賞与についても、ある程度、実績に連動するしくみに変えました。ただし、本給のカットや降格人事はしない制度になっています。
そして、財務体質を改善するため、売上主義をあらためて、粗利重視の管理体制に転換しました。売上実績を評価基準にしていると、営業マンはどうしても値引きに頼ってしまいます。でも、私どもは商社ですから、もともと粗利率は高くない。売上を追求するあまり、過剰な値引きによって自ら首を絞めることにもなりかねませんでした。
そうした営業スタイルが可能だったのは、幸い、私どもに技術力があったからでしょうね。従業員の半数近くが技術系の出身で、お客様のご要望への細やかな対応やアフターサービスに注力できる点で、同業他社と一線を画すことができました。新製品を開発することもあって、そうした強みを発揮できたことが、黒字化の原動力になったと思います。
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1944年、近藤社長は東京都に生まれた。父は陸軍軍医で、第二次世界大戦中は満州や南方戦線に従軍。所属部隊の大半が戦死するような危機も、奇跡的に切り抜けたという。近藤社長の人生観には、父の影響が大きい。
慶應義塾大学工学部に在学中、ドイツ交換留学生として欧州滞在を経験し、68年、同大学を卒業。同年、日本電子に入社した。
その後、ソビエト連邦(当時)駐在を経て、帰国後、わずか28歳で労働組合執行委員長に就任。共産主義の実態を目撃した経験から、左翼的労働運動の限界を確信し、民主的な労使関係の構築に努めた。
その矢先、日本電子が放漫経営によって倒産の危機に陥る。オーナーを含む経営トップの退陣と引き替えに、全社員の3分の1に当たる約1000名の人員整理を受け入れる苦渋の決断で、従業員側の代表として経営の自主再建に力を尽くした。
84年、労働組合の委員長を退任すると、アメリカ法人の再建を命じられ、副支配人として渡米。87年に支配人、89年には取締役アメリカ法人総支配人に昇格したが、93年に帰国するまでの間に、ニュージャージー支社の閉鎖にともなう全スタッフの解雇とボストン支社の人員削減を経験する。アメリカ法人の黒字化に成功した実績は高く評価されたものの、非情な人員整理を任務とするなかで、安定的な雇用の確保こそ経営者の役割と痛感するに至った。
帰国して間もない近藤社長に与えられたのは、またしても子会社の再建という困難な任務だった。
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労働組合の委員長として人員整理を受け入れたとき、私は30歳でした。退職する方は組合からも脱退しますから、個人別に積み立ててきた闘争積立金を返還しなければいけません。私は、その手続きでほぼ全員と面談しました。
当然、私より年長の先輩がほとんどです。複雑な気持ちだったはずですが、その大半は私を激励してくれました。ありがたかったですね。
でも、なかには納得しがたい憤懣をぶちまける方もいて、激しく指弾されることもありました。とくに「なぜ、組合費を長年、払ってきた者が犠牲にならねばいけないのだ」という言葉には、返す言葉がなかった。手厚く保護されるべき功労者がリストラされて、社歴が短く、貢献度の低い若者が会社に残るわけですから、当然の疑問です。私は、自分の責任を痛感しました。
同時に、私は社員やその家族の人生を狂わす経営危機というものに、憎悪すら感じました。すべての元凶は、赤字なんです。経営者の能力不足を表わすだけでなく、様々な不幸や軋轢を招く点で、赤字は罪深い。赤字は罪悪であるという考え方は、いまも変わりません。
心のなかでつぶやく「いま、ここ、自分」
何の因果か、そののち私はアメリカ法人と日本レーザーの再建を任されることになりますが、労働組合の委員長という立場で再建に協力するのと経営者として取り組むのとでは、当然ながら、見える景色がまったく異なります。アメリカでは、赴任中、2回も胃潰瘍になってしまいました。
ただ、どういう状況に置かれても、私は心のなかで「いま、ここ、自分」と、つぶやいてきました。この瞬間、この状況のなかで、自分がやらねば誰がやるんだ、ということです。たとえ損な役回りでも、それが自分の巡り合わせなら、精一杯の力でぶつかってみる。そういう気持ちで挑戦し続けてきたことが、結果として、日本レーザーの黒字につながってきたと思います。
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倒産の危機を脱した日本レーザーは、2007年、いっさいのファンドを入れないかたちでMEBO(Management and Employee Buy-Out)を実施して、親会社からの独立を果たした。国内では、数少ない成功例とされている。
MEBOはM&Aの一種で、経営陣と従業員が一体となって買収対象企業の株式を取得し、経営権を掌握する手法のこと。従業員も買収に参加する点で、経営陣のみが買収するMBOと異なる。同社では、MEBOの実施以降に加わった新入社員も含め、パート・派遣社員を除く全社員が株主となっている。
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きっかけは、小さなことでした。私が社長に就任して、ちょうど10年が経ったころ、2泊3日の社員旅行を実施したんです。
前の期も業績は好調で、経常利益は1億3700万円。親会社への配当は、過去最高の50%です。経営危機以来、10年間、社員旅行は絶えていて、その間の努力をねぎらう意味でも、従業員のさらなる結束を図る意味でも望ましいと判断して親会社の承諾を得たのですが、ちょっとした手違いがあって、始末書を提出する騒ぎになってしまいました。
始末書くらいどうってことはないけれど、その程度のことも自社で決められないのでは、従業員のモチベーションに関わります。実際、部長以上の人事が親会社の承諾事項だったり、為替予約に制限があったり、商社機能の生命線である機動性や柔軟性を阻害しかねない制約がいくつもありました。
親会社には苦しい時期に助けてもらった恩義がありますが、連結子会社であり続けることが日本レーザーの成長を阻むようでは、互いにとって不幸です。私どもの成長を認めていただけたのか、今後は後任の社長を派遣しないとの方針を通告されたこともあって、「脱子会社」を本気で考えるようになりました。
独立に際して、手法はいくつかありました。ただ、M&Aでは親会社が別の会社に代わるだけで意味がない。MBOだと、株式の希薄化とファンドの介入を許す可能性がありました。そこで、持ち株会社を設立してMEBOを実施することを決断したわけです。もっとも、MEBOにも問題がありました。最大の難問は、株式の買い取り価格です。簿価純資産やキャッシュフローに着目した方式で株価を算定すると、莫大な額になってしまいます。私どもでは、配当金に着目した方式で算出し、それをもとに親会社と交渉を重ねて、どうにか実現可能なレベルに設定することができました。
パートさんと派遣社員を除き、新入社員を含めた全社員が株主になって、確実に変わったのは当事者意識です。私も含めて、ほとんど全員が「自分の会社」ととらえていますから、子会社だったころの甘えやどこか他人事のように考える傾向は払拭されました。
ただし、MEBOによって社員のモチベーションが高まったという解釈は、的を射ていない。もともとモチベーションが高かったから、MEBOができたんです。最初に社員の出資を募ったとき、予定枠の4倍もの応募がありました。
「脱子会社」も「脱赤字」も、それを実現するのは従業員なんです。その当たり前の事実を見つめなおすことが、すべての始まりではないでしょうか。
月刊「ニュートップL.」 2013年3月号
編集部
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