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高度な真空部品技術で人類初の重力波測定に貢献する(株式会社ミラプロ・社長 津金洋一氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


元中学校教諭という異色の経歴ながら、ミラプロを溶接ベローズの国内シェアトップ企業に育て上げた津金洋一社長。その創業の経緯と国家的プロジェクトに貢献する意気込みを語る。

現在、東京大学宇宙線研究所や国立天文台などが中心となって、「大型低温重力波望遠鏡(LCGT)計画」が進められている。これは、ブラックホールの誕生や超新星爆発によって生じる重力波の直接観測をめざすプロジェクトで、2016年からの本格的な観測開始を予定。宇宙素粒子研究施設「スーパーカミオカンデ」で知られる神岡鉱山(岐阜県飛騨市)の地下200メートルにLCGTを設置し、地球から7億光年以内に発生する重力波を検出する。

直接観測に成功すれば人類初の快挙となるだけに、ハードルは高い。重力波はきわめて微小な振動と考えられるため、非常に高感度な検出装置が必要とされるからである。他の銀河系で発生した天体現象による重力波が地球に届いたとき、その信号の大きさは太陽と地球の間で水素原子1個分が動いた程度でしかないという。

ミラプロ(山梨県北杜市)の津金洋一社長がこの国家的プロジェクトへの参加を決断したのは、同社の真空部品に関する技術が高い評価を受けたからだった。

◇    ◇    ◇

重力波とは、アインシュタイン博士が一般相対性理論でその存在を予言した「時空のゆがみ」のことですが、詳しいことは私もさっぱりわかりません(笑)。

当然ながら、他人様からの受け売りですが、重さをもった物体が存在すると、その周囲の空間がゆがむというんですね。そのゆがみが、物体の動きにともなって波のように伝わっていく。それが重力波で、「時空のさざなみ」と表現されることもあるようです。

われわれの周囲にも「時空のゆがみ」は生じているのですが、あまりにも小さいから気づかないし、測定もできない。そこで、超新星爆発のような天体現象に着目して、そのゆがみを実際に検出しようというわけです。

長さ3キロにわたり、まっすぐなパイプを実現

測定のメカニズムも難解なのですが、簡単に言えば、ある地点からレーザー光を照射して、まず2本に分岐させる。それぞれを遠くに置いた鏡に反射させ、戻ってきたレーザー光を再び合流させます。2本のレーザー光が同じ距離を進めば、同時に戻ってきます。ところが、重力波の影響を受けて「時空のゆがみ」が生じると、レーザー光が戻ってくるまでの距離が微妙に変化して、到達時間に小さなズレが生じる。それによって、「時空のゆがみ」を検出するという仕組みのようです。

このとき、レーザー光が鏡に反射して戻ってくるまでの距離は、長いほどよいわけです。「時空のゆがみ」は、われわれが目視できるようなレベルの話じゃありませんから。LCGTでは、3キロ先に鏡を設置することになっています。つまり、3キロにわたってズレやねじれのないまっすぐなパイプが必要なんです。そこで、私どもに声をかけていただいたような次第です。

といっても、もちろん3キロもの長さのパイプをつくるわけではありません。直径80センチ、長さが12メートルのステンレス製パイプを500本つくって、それらを接合することになります。したがって、正確な接合の技術は言うまでもなく、振動を吸収する部品にも高い性能が求められます。しかも、パイプのなかに異物が紛れ込んでいたら精密な測定ができませんから、パイプ内を超高真空な状態に保たなければいけません。

プロジェクト自体、まだ緒に着いたばかりで今後は困難も予想されますが、夢のある大きなプロジェクトに参加できることは喜ばしく思っています。

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津金社長は、中学校の数学教諭という異色の経歴をもつ。しかも、教諭生活は20年間に及んだというから、創業者の経歴としては珍しい。1942年、山梨県北巨摩郡津金村(現北杜市)に生まれた津金社長は、姉2人、妹2人をもつ5人姉弟の長男で、父は地元の役場に勤務する公務員であった。

64年、山梨大学教育学部を卒業し、同年、県内の中学校に数学教諭として赴任。以来、84年に教職を辞するまで教壇に立ち続けた。

転機となったのは、元同僚が始めた雑貨販売業の経営難であった。事業を支援してきた津金社長が、進退窮まった彼の事業も借金も引き継いだのである。津金社長を兄のように慕う仲間の危機を黙って見過ごせなかったことが、結果としてミラプロの創業につながっていった。

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彼は、いわゆる臨時教員だったものですから収入も不安定で、常勤の教諭をめざしていたものの思うようにいかず、たびたび相談を受ける間柄でした。あるとき、見かねて転職を勧めたんです。すると、彼もその気になって「自分で商売を始める」と言うから、行きがかり上、私も彼を放ってはおけません。先祖以来の土地を提供して、運転資金に困っていたら資金援助もして、なんとかして彼の自立を実現したかったのですが、そうしているうち自分でも意識しないまま、彼の事業のオーナー的な立場になっていました。客観的にみれば、そこまでの義理はないのでしょうけれど、どうやら性分のようです。

そういう事情ですから、「後始末」も私以外にできる者がいません。教諭としての適性や自分の将来についていろいろ考えていた時期で、また20年という区切りでもありましたので、転身することになったんです。

責任を負うことで得る経営者の自由

とはいえ、お恥ずかしい話ですが、何かやりたい仕事があったわけでもなく、特別に才能や技術があるわけでもない。たまたま、電子部品製造会社に勤めていた義弟が基板の発注先を探していたので、渡りに船と基板組立工場を始めることにしました。われながら、無計画な創業です(笑)。

私の他、男性1人と近在の農家からパートの女性に7人ほどきてもらってのスタートでしたが、誰も基板のことなんてわからない。見よう見まねで基板に部品をハンダ付けしていましたが、最初は温度管理も何もできていないから、納品しても翌日にはすべて返品です。いまでも忘れませんが、初月は結局、パートの女性を増やして総勢14人になり、売上は74万円しかありませんでした。大赤字ですね。

それ以来、知人を訪ね歩いて技術的な問題を教えてもらい、親切な方からいただいたアドバイスをいろいろ試していくうち、どうにか体制も整って、ちょうど1年経ったころには月商が200万円を超える程度にはなりましたでしょうか。それでも、創業から5年間くらいは経営が安定せず、資金繰りにばかり悩まされていました。幸い、教員だった家内の収入だけは安定していたものですから、それでようやく生活できたような感じでしたね。

ただ、生活は苦しかったものの、教諭を辞めたことを後悔することはありませんでした。もちろん、教諭は素晴らしい職業です。経営者とは違う種類の重責を担う立場であり、生涯を賭すに足るやりがいも感じることができる。しかしながら、立場上、思うに任せぬ制約もあって、自分一人では責任を負い切れない場合もあるんですね。その点、経営者はあらゆる責任を一人で負うことができます。ご承知のごとく、それはまさに命懸けの責任ですが、反面、何ものにも代え難い自由があります。そういう立場で仕事に取り組むことが、性に合っていたんでしょうね。

もともと楽天的な性格なんです。いつかはどうにかなるだろうという根拠のない見通しがあって、実際、これまでもどうにかなってきました(笑)。もっとも、それはいつも様々なご縁に恵まれたからなのですが。

◇    ◇    ◇

同社が、主力製品であるベローズやフレキシブルチューブなど真空パーツの製造に乗り出したのは、創業して丸10年を迎えた94年のことだった。ところが、これも津金社長が意図した新事業だったわけではなかった。仲介者がいて、勤務先の事情により失業していた技術者を7人迎え入れたところ、彼らがベローズの高度な製造技術をもっていたからだったという。

そうして始めた真空関連事業だったが、その後、同社の急成長を実現。2000年には売上が約40億円に成長し、05年に100億円を超えた。いわゆるリーマンショックの影響も受けたが、10年は123億円に回復。独自に開発した 「全自動ベローズ溶接機」などで24時間稼働生産システムを構築したこともあって、現在、同社は溶接ベローズの製造販売では国内シェアトップとみられている。

◇    ◇    ◇

実は、ベローズの技術者たちと初めて会ったときは「ベローズ」という言葉さえ知らなかったんです。どういうものか聞いてみると言葉を尽くして説明してくれましたが、わかったようなわからないような感じなんですね。

それで、具体的に私はどうすればよいのかと尋ねると、「3億円ほど用意してほしい」と言う。では、それが用意できればどうなるのかと聞いたら、「部品メーカーになれます」と言うんです。それまでの仕事は基板の下請けでしたから、それはよい話を聞いたと思いまして、了承しました。

ところが、「じゃあ、3億円あるんですね」と聞き返されたんですが、そんなお金あるわけがない(笑)。結局、銀行から融資していただけたことなどで、どうにか資金が調達でき、ベローズの製造に乗り出したわけです。

優秀な人材が加わるたびステップアップを実現

振り返ってみると、不思議なことに、私どもは創業からほぼ5年ごとに転機を迎えてきました。そして、そのたびに売上や従業員数も増えてきたのですが、なぜそうした成長が可能だったのかと考えると、例外なく「人材」のおかげなんですね。特殊なノウハウをもっていたり、人脈が広かったり、そうした新しい事業展開のキーマンが加わってくれたことで成長することができました。まさに「人は城」で、謙遜でも何でもなく、私の役割は彼らの働きやすい環境を整えることくらいでした。強いて言えば「来る者拒まず」で、門戸を広く受け入れてきたことも優秀な人材の獲得には役立ったのかもしれませんが、おかげでいわゆる「出戻り」組もいて、ひどいケースになると、4回入社して4回辞めた従業員もいたくらいです。

来年の元旦、満70歳になるので、株主総会後の7月、いま専務の長男と社長を交代し、会長に退くつもりです。私は42歳になるまでビジネスとは違う世界にいて、右も左もわからないまま、幸福な出会いに助けられてきましたが、長男の場合は学校を出てすぐ会社勤めをしてきたわけで、「会社」がどういうものであるかは私よりよく知っています。しかも、他社にお世話になった経験もあります。そうした経験を活かして、しっかりとした組織づくりに取り組んでもらいたいですね。できるかどうかわかりませんが、私はできるだけ口出しせずに見守っていたいと思っています(笑)。

月刊「ニュートップL.」 2011年10月号
編集部


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