タッチパネルの基礎技術を開発、先駆者として普及をリードし続ける(株式会社タッチパネル研究所・社長 三谷雄二)
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いまや券売機やATMからスマートフォンに至るまで、タッチパネルは当たり前に使われているが、普及する以前からタッチパネルに関わり続け、その技術的な基礎となる透明導電性フィルムを開発した先駆者が、タッチパネル研究所の三谷雄二社長である。
自らの仕事に対する誇りとこだわりをもち続け、タッチパネル業界の技術的リーダーになった。
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ことし4月、東京ビッグサイトで開催された世界最大のフラットパネルディスプレイ展示会「ファインテックジャパン」で、750社も出展するなか、ある小さな企業に注目が集まっていた。東京都八王子市に本社を置く従業員65名のタッチパネル研究所である。
同社ブースには、大型のタッチパネル式テーブルコンピュータが展示され、手を触れるだけで地図が拡大したり、触った部分から鮮やかな模様が広がり音を奏でる様子が披露され、多くの来場客の耳目を引いていた。
同社創業者の三谷雄二社長(74歳)に「未来の光景を見ているようですね」と話しかけると、「現実ですよ。このテーブルコンピュータはすでに販売しています」と笑顔で答えが返ってきた(以下、発言は同氏)。
大手からもテーブル型コンピュータは発売されているが、40~50インチサイズで100万~300万円と高額だ。一方、同社では42インチの光学式マルチタッチテーブルで約30万円と低価格。中国メーカーからの輸入品だが、同社が材料指定や設計、検査などに関わり海外生産しているのである。
「材料は日本製で、組み立ては中国国内で行なっています。中国にはアメリカで勉強した優秀な技術者がおり、モノづくりの力は上がっていますよ。日本はうかうかしていられません」
航空機用タッチパネルモニターでシェア50%
三谷社長は今後、テーブルコンピュータをファミリーレストランやカラオケ店向けに販売する計画だ。カラオケ店であれば、テーブル上で選曲や飲食の注文ができ、歌詞を表示することも可能。ゲームを搭載するなど、アイデア次第でアプリケーションはいくらでもあるという。
テーブルコンピュータのほかにも小型から大型までタッチパネル製品を扱っているが、同社が得意とするのはニッチで特殊な用途の特注品である。製造は、広角フィルムを貼るなどの一部の工程を除いて基本的に外部に委託している。
同社を成長させた原動力は、航空機の座席に組み込まれているタッチパネルモニターである。航空機に搭載される部品・備品には高度な性能が要求されるが、同社はそれに応え、ボーイング社やエアバス社などに納入し、シェアの50%強を握る。
「航空機関係は厳しいですよ。耐久性や燃えにくさだけでなく、隣の座席からは見えない工夫とか、つくり始めたらやめてはいけない、製造場所を変えてはいけないなどと禁止事項ばかり。それでコストダウンしろと言われても無理でしょう。安い材料を使えないんだから」と三谷社長は苦笑いする。
現在、同社の売上の半分は航空機用タッチパネルが占め、残りの半分はタッチパネル用材料を国内メーカーから仕入れて、台湾や中国向けに販売する事業によるものだ。タッチパネルの材料には、電極となる酸化インジウムスズという化合物でつくる透明導電性フィルムや、表面用のPET(ポリエチレンテレフタラート)フィルム、回路形成用の銀ペーストなどがある。
「当社は、メーカーなのか商社なのかわけのわからない会社(笑)。われわれは自社を技術商社と呼んでいます。単に輸出するだけでなく、材料を評価して取引先が必要なものを納入します。製品を輸入する際も当社でスペックを決め、場合によって材料を決めて設計も行ない、検査しているのです」
こうしたことができるのも、同社がタッチパネル用の材料や製品を検査する評価機を製造しているからである。材料の特性、タッチパネル製品の電気特性や抵抗率を調べたり、フィルムに圧力を加えて耐久性を調べる打鍵試験機などを手がけており、「国内ではスタンダードになっている」と三谷社長は言う。
透明導電性フィルムを開発、事業化めざす
この評価機の販売だけでなく、加工性や歩留まりなどを含めて評価・試験を受託するサービスも行なっており、売上的には大きくないが、そのおかげで同社にはタッチパネルに関する最先端の情報が集まる。
「大手材料メーカーといえども、開発した材料がタッチパネルに有効かどうかわからないので、当社が評価サービスを提供しています。そのため、国内の材料開発の動向をつかめる。もちろん、個別の情報は守秘義務がありますが、どの材料がどのランクやレベルにあるのかすべてわかります。だから、台湾、中国、韓国のメーカーがわれわれから材料を買うのです。情報発信するから情報が集まってくる。それがうちの強みです」
三谷社長は、北海道大学理学部を卒業後、帝人に入社。そこで、1970年代から透明導電性フィルム(ITO)の開発と新規事業の立ち上げに関わった。可視光の透過率が高い酸化インジウムスズでつくったフィルムが何に応用できるのか、当時はまだわかっていなかった。
「100億円の事業をめざせという社命のもと、フィルム開発と応用技術の研究を続けましたが、材料販売だけで100億円規模には到底、達しません。それならば、付加価値のある製品に応用する必要があると考えました」
現在、ITOはスパッタリングという真空中にガスを入れて放電させながら膜をつくる手法が一般的だ。しかし当時、この手法は開発されておらず、三谷社長は、酸化インジウムスズをPETフィルムに直接成膜する製法を含めて3年がかりで開発した。画面を指で押して入力する抵抗膜式と呼ばれるタッチパネルでは、PETフィルムとガラスの間にITOを成膜し電極にする構造が、開発以来ずっと使われているという。
三谷社長が開発したITOは、1978年に専門雑誌で特集されるなど注目されたものの、活用法が見出せなかった。そのうちプロジェクトの他のメンバーは、記録材料や太陽電池などの分野に移っていった。
だが、三谷社長はITOにこだわり続ける。そのうちアメリカから、ITOを利用したタッチパネルに関する情報が入ったという。
「これだ」と思った三谷社長は90年ごろからタッチパネルの事業化に取り組んだが、当時は需要がなかった。
ITOを利用して高級自動車向けにカーナビの液晶を強制加熱するヒーターをつくり、それなりに売れたが、100億円市場には成長しなかった。
ついに、帝人の経営陣はITOとタッチパネルに見切りをつけ、94年、包装資材大手メーカーに事業譲渡されることになった。三谷社長は責任者として帝人を退職して同社に移ったが、ここでも3年ほど踏ん張ったものの軌道に乗らなかった。ここに至って三谷社長は独立を決意。1人でタッチパネルの研究開発を続けていくことにした。
「タッチパネルを広く普及させるといった遠大な志があったわけではありません。私にはそれしかなかったんです。でも、タッチパネルについては誰にも負けない自信がありました」
98年に1人でタッチパネル研究所を設立。長年の取り組みから社外に仲間がおり、事業の立ち上げに協力してくれた。だが、資金も工場も何もなかった。
普及期の波に乗り業容を拡大
三谷社長が創業時に掲げた三原則がある。「借金をしない」「人を雇わない」「工場をもたない」の3つである。マイペースに1人で続けようと思っていたのだという。事務所は自宅、検査機はガレージに置き、会社を大きくしようとは考えなかった。
だが、大手企業の看板が外れると、材料を買うのも難しくなった。そこで仲間に頼んでは現金で支払って材料を入手していた。初年度の売上は300万円。3,000万円という目標を大幅に下回る結果だった。
そのうち、同社のことを知った台湾のベンチャー企業がタッチパネルの技術指導を求めてきた。その企業はいまでは台湾第2位のタッチパネルメーカーに成長している。三谷社長は、これを機に技術コンサルティング事業を始め、同時に日本の材料を海外に輸出するビジネスが軌道に乗り始めた。
ただ、材料を購入するには資金が必要で、会社も規模が拡大する。そこで三谷社長は、独立当初の三原則を方向転換。信用金庫から500万円の運転資金を借りては返し、返しては借りる自転車操業を続けざるをえなかったが、売上は急伸した。こうなると、人を雇わないとも言っておられず、帝人時代の後輩や娘とその夫なども呼び込んで、社員は総勢6名となり、売上も2億円にまで増えた。2002年のことである。
さらに業績を押し上げたのが航空機向けタッチパネルモニターだ。オーディオ機器メーカーのために試作品をつくったことをきっかけに、そのメーカーにタッチパネルセンサーを納入することになり、03年に航空機用タッチパネル事業部を設置。事業の柱へと育っていった。
07年、アップル社のiPhoneが発売されると、世の中にタッチパネルが急速に普及していく。タッチパネル市場は急成長し、リーマン・ショックの影響もまったくなく、同社の売上は、08年に10億円を突破、12年は20億円を超えた。
「私の意図とは裏腹に、当社はこの数年で急成長し、中途採用で社員が増え、本社も移転拡張しました。いまや従業員は60人を超えてしまいましたよ」と、三谷社長は迷惑げながらもうれしそうだ。
テーブルコンピュータで新たな可能性を提案
現在、三谷社長が新しい事業の柱として期待しているのが、冒頭で述べたテーブルコンピュータなどタッチパネルモニターを製造・輸入販売するモニター事業である。
「07年に事業部を立ち上げ、社員を15人も投入しています。ようやく売上が2億円ほどになり、今年度から黒字化する予定ですが、ペイしようがしまいが、当社が生きる道はここにしかないと思っています」
光学式マルチタッチテーブルが次第に売れ始めており、三谷社長は様々な用途を示しながら拡販したいと考えている。
「液晶ディスプレイの用途が増えれば、世の中にタッチパネルが広がります。最近ではデジタルサイネージ(電子看板)や電子黒板なども普及し始めており、市場拡大の余地は大きい。たとえば、バーのカウンターに横長のテーブルコンピュータを組み込んで、川の映像を表示し、そこで魚を泳がせたり、釣り上げたりできると面白いでしょう。季節に合わせて桜吹雪や紅葉を流してもいい。そうした提案をしたいと思っています」
テーブルコンピュータに物を置くと、それが楽器になるような新しい電子楽器もつくれる。アイデアさえあればいろいろな楽しいエンターテインメントの形がつくれるが、日本人はそうしたしくみの開発が不得手であり、三谷社長は若い人がその感性を活かして、新たなコンテンツやアプリケーションをつくっていくことを期待している。
台湾では、路面店舗のウインドウに情報が浮かび上がる透明液晶を使ったディスプレイが導入されている。三谷社長は透明液晶を用いたタッチパネル式モニターをつくり、6月の国内展示会に出展する計画だ。
三谷社長は「自分を経営者と思っていない」と言う。会社もできれば大きくしたくない。
「資金繰りに追われて銀行に頭を下げ続ける経営者にはなりたくない。だから、借金は極力せず、手形も発行しないし、受け取らない方針を貫いてきました。事業も社員に任せて、友達のように付き合えればいいと思っています」
三谷社長は八王子市内のライブハウスを社員や顧客と訪れることを楽しみにしている。飄々と人生を楽しみながらも1本スジが通った自由人の強さが垣間見えた。
月刊「ニュートップL.」 2013年6月号
吉村克己(ルポライター)
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