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「おもろいタクシー」で人と街とを繋ぐ担い手になる(近畿タクシー株式会社・社長 森﨑清登氏)

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掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


ロンドンタクシー、スイーツタクシー、お花見タクシー、神戸ビーフタクシー・・・。
数々のアイデア観光タクシーを神戸の街に走らせてきた森﨑社長。そこには生まれ育った神戸市長田区の震災復興にかける思いが込められていた。

一昨年、近畿タクシーは運行する神戸の有名スイーツ店を巡るスイーツタクシーや、ジャズスポットに案内するジャズタクシーに「My Qpit(マイキューピット)」という統一ブランドを冠した。デザイナーに依頼しハートをかたどったブランドロゴなどを作成、ドライバーの名刺や車体にロゴをあしらった。その設立趣意書の冒頭には「タクシーは人と街を繋ぎ、それぞれに“しあわせ”をもたらす『キューピット』のような役割があると考えます」とある。この言葉に森崎社長の思いが集約されている。

◇    ◇    ◇

41歳のときに「タクシーこそが天職や」と悟りました。その3年前に導入した「ロンドンタクシー」がきっかけとなって経済界の人や文化人の方々など、いままでお付き合いのなかった人とたくさん出会うことができた。自己表現がタクシーでできると思うようになったからです。実はそれまで、タクシー業がイヤでイヤでしようがなかった。

大学を出て酒造メーカーで11年勤めました。その会社でのサラリーマン生活に先が見え転職を考えていたときに、跡継ぎがいなかった妻の実家を継いでみようと思ったのです。

経営者になれば、サラリーマンと違って自分の考えで何かがやれると夢をもちました。でも「跡を継ぐ」と言ったとき、喜んでくれたのは社長だった義父だけで、友人からは「お前には向いてない、やめとけ」と口を揃えて言われた。それだけイメージの悪い業種だったのでしょう。

覚悟はしていましたが、入社してみるとすぐに夢も希望も吹き飛びました。タクシー会社は、営業、サービス、回収まですべてドライバーがこなし、会社はそのまとめをやるだけ。言うなれば労務管理だけの会社です。当時は行政の規制も厳しかったので、経営者が腕を振るうような場面はほとんどなかったんです。

ドライバーも個性的な人間がいっぱいいた。入社してすぐに、ドライバーの不始末がもとで警察の取調室に行きました。常務の肩書きをもらって、給与計算や経理などの事務方を務めていたのですけど、私に回ってくる電話は苦情と事故処理ばかり。

なかには夜も眠れないくらいのやっかいなトラブルもありました。普段はたいした仕事もなくて、事務所でぽつねんとしているんですけど、1本電話が入るとあちこち駆けずり回らないかん。常に不安と隣り合わせで精神的にこたえましたね。

それ以上に意欲を削がれたのが、仕事が積み重なっていかないことでした。当時、当社はすべて流し営業でしたから、顧客名簿もなかった。
どんな仕事をしてもあとに残るものが何もないのです。前の会社では宣伝広告や商標管理をやっていたのですが、その知識を活かすところもない。
これはタクシー会社に「どうせお客様はタクシー会社なんてどこでもいいんや」という勝手な思い込みがあったからです。本当はお客様はタクシー会社を選びたがっていたはずなんです。

現実を知り失意にあった90年、英国で走る独特のスタイルのロンドンタクシーが日本に輸入されるという記事を新聞で読む。

一目見て、神戸の街並みにぴったりだと思った。この車を走らせたら、何かが変わるかもしれないという予感がした。
だが1台900万円、普通のタクシー6台分の車を一存では購入できない。そこで、今後自社が柱とすべき事業を「観光と福祉」という企画書にまとめあげ、社長室の戸を叩いた。そこにロンドンタクシーの導入を盛り込んだ。

◇    ◇    ◇

義父からは「絶対失敗する。1年でお前の自家用になるぞ」と諭されました。タクシー会社は細く長く続けていくことが肝心で、新しいことをやった会社は皆潰れていくというのです。

というのも、タクシー運賃の原価にはもともと販促費や開発費が考えられていない。新しいことに取り組むと、その分がまるまる赤字になる構造だったんです。

「いまのタクシー業界は泥沼の中にあって何の光もない。それでは将来がない」と食い下がりました。事業をらせん階段にたとえて、「ひとところに留まっているんじゃなくて、たとえ少しでも上に向かって歩いたら何かが発見できるはずです」とも言った。

実際、そのまま跡を継いでも長くやっていく自信がありませんでしたから必死でした。私が毎日、いまにも辞めると言い出しそうな暗い顔で出社していたことを知っていた義父は、最後には納得してくれました。

ロンドンタクシーがエンジンをかけてくれた

制服もホテルマンのようなデザインにしたので、乗務してくれるドライバーがいるかが心配でしたが、幸い、ベテラン2人が面白がって手を挙げてくれた。お客様第1号はさる一流ホテルの社長でしたが、ドライバーが大喜びして戻ってきて「名刺をつくってほしい」と言ってきたのです。

聞くと、その社長は「こんな車に乗るなんて君はエリートなんだね」と言って名刺をくれたそうで「そんなことを言われたのは初めてや。交換する名刺がほしい」と。

実際、この車に乗るとドライバーの背筋が伸びるんです。お客様からは丁寧な扱いを受けますし、カメラを向けられることも多い。だから最初、尻込みしていたドライバーにも交替で乗るよう、けしかけました。

それによって、ドライバーの意識が変わってきて、言葉遣いは丁寧になり、神戸の観光地を勉強するようにもなった。職業に自信がもてるようになったんですね。

私自身も、「あのロンドンタクシーを導入したヤツ」ということで、人とたくさん出会えるようになりました。この世界で生きていけると確信できるようになった。

ロンドンタクシーが私にエンジンをかけてくれたんです。新しいことをやるには、まず“かたち”から入ることも大切ということを実感しました。

いまも1台、観光とブライダルで使っています。維持費がものすごくかかるので採算的には合いませんが、数字に表われない効果を発揮してくれています。

◇    ◇    ◇

だが、天職を悟ったのも束の間、95年には阪神大震災が起こる。社屋や自宅は高台に位置していたことから直接の被害は比較的少なかったが、神戸の市街地は壊滅状態となった。

このときは病院船が神戸に来航、船に寝泊まりする医師や看護師を、各地に設けられた臨時診療所に送迎する仕事が入ってもちこたえることができた。

生まれ育った町が一面更地になった光景を見たときの気持ちはうまく表現できません。喪失感とか悲しみ、将来への不安が一緒くたになって押し寄せてきた。
それらを乗り越えて、みんなと一緒にもう一度自分たちの町をつくり上げていくしかないと思いました。

それからは、いろいろな市民の集まりに顔を出すようになりました。そこで、タクシーで何かお手伝いできることはないかと名刺を配りまくった。復興イベント会場に乗り合いのマイクロバスを走らせたり、ドライバーから集めたリアルタイムの交通情報を地域のFM局に提供したりもしました。

そして、震災から5年経って、私が言い始めたのが「長田区を観光の町にしよう」ということでした。最初は「そんなこと言うても名所なんて何もない」という反応でしたけど、「よそにはない震災体験が長田区にはある。みんなでありものを持ち寄れば何とかなるんやないか」と商店街の会合などで言い続けたら、だんだんその気になってくれたんです。

長田区は全国の皆さんからのあたたかいご支援で復興してきました。だから各地からの視察団は来てもらえるだけでもありがたいと、こちらで資料を用意したり一所懸命ボランティアでご案内してきた。

でも、5年目になるとそれを負担に感じる気持ちも出てきたんですね。それなら視察団を観光団にして長田区でお金を使ってもらうようにしたらどうかということです。そうでないと長続きしないと思いました。

◇    ◇    ◇

最初に誘致したのが中学・高校の修学旅行だった。震災の傷跡や復興を果たした先をタクシーで巡るとともに、震災体験者の話を聞く場をセッティングして好評を得た。観光には名物が必要だろうと、地元の食品会社に交渉し、地元の食べ物である牛すじとこんにゃくを甘辛く煮込んだ「ぼっかけ」を使ったご当地カレーを商品化したのも森﨑社長だ。いまでは「ぼっかけ」は長田名物として全国に知られるようになっている。

そして09年、観光の町・長田区のシンボルとして、JR新長田駅前に鉄人28号の巨大モニュメントが完成する。

◇    ◇    ◇

鉄人28号の作者の横山光輝さんは、小・中学校の先輩に当たります。私にはあの突き出した右腕がエイッ、エイッと2度突きしているように見えるんです。「これまで15年間みんなよう頑張った」が1度目のエイッ、「これからも頑張ろう」というのが2度目のエイッです。

02年の「お花見タクシー」から始まる観光タクシーの発想も、長田区の商店街の人たちとの話のなかから生まれたものでした。何も特別新しいことをやっているわけではない。地元では当たり前のように存在する場所やお店も、光の当て方次第で観光に使えるということです。

「スイーツタクシー」は神戸のスイーツ店と提携していますが、当社はマージンをもらっているわけではない。ただ、予約して訪ねていったときにお客様の名前を入れたプレートや、特製の小さなプレゼントを用意してもらうようお願いしています。それだけでお客様に幸せな気分になってもらえるんです。

ドライバーの確保はダイバーシティ化で

他のアイデアタクシーも同じです。地域の人たちがもっている資源をテーブルに出してもらって観光に結びつけてきた。それをつなぐ役割をタクシーで果たそうということです。

いままでアイデアタクシーは何十と企画して、外れになったものも少なくありませんが、外れても構わない。1番のヒット商品である「スイーツタクシー」も、年間のお客様は400組くらいで売上自体は驚くほどのものではありません。それよりもいろいろな試みをして、当社や社長の森﨑を世間に知ってもらうことが大切やと思っています。

実際、「あの会社は何かおもろいことをやってる」と言われることをめざしてきました。そこから人との新たな繋がりが生まれ、商売や復興に役立てることができるんです。「My Qpit」としてブランディングを始めたのも同じねらいです。

「タクシー業界はこのままじゃいかん」と言うと、業界の人は皆「そうや」と頷いてくれます。でも、頷くだけで何か新しいことを実行しようとはしない。「さっぱりや」「儲からん」とぼやくだけでは業界に未来はないことに早く気づいてもらいたいと思っています。

業界のいまの課題はドライバーの確保です。当社もロンドンタクシーを導入したとき、ドライバーの平均年齢は40歳くらいでしたが、そのまま年を重ねていまは65歳になっています。地方ではドライバーのなり手がいないのです。

では、どうするか。まだ構想の段階ですけど、地域に住む女性や定住外国人、ハンディキャップをもつ人を集めてダイバーシティ(多様性をもった雇用)の職場にできないかと考えています。

現在予約営業は40%で、神戸に80社あるタクシー会社のなかで屈指の高さですが、そうなればもっと予約比率を高める必要もあるだろうし、宅配とタクシーを一緒にやるという手もあるかもしれません。

そういうかたちに事業をつくりかえていくことで、本当の意味で人と街をつなぐ地域交通の担い手になれるんやないかと思います。

月刊「ニュートップL.」 2014年5月号
編集部


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