『獺祭』を世界に広めて日本の農業にも貢献したい(旭酒造株式会社・社長 桜井 博志氏)
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こだわりの品質が圧倒的な人気を集め、海外からも高く評価される山口県の地酒『獺祭(だっさい)』。その生みの親である旭酒造の桜井博志社長が、試行錯誤を経て独自の酒づくりを実現した道のりと経営観を語る。
若者の「日本酒離れ」や酒類の多様化などによって、清酒販売(消費)量は毎年、減少し続けている。2010年度は55万8000キロリットルで、ちょうど40年前の1970年度と比べると、約3分の1にまで落ち込んだことになる(日本酒造組合中央会より)。
市場全体が縮小し続けるなか、旭酒造は『獺祭(だっさい)』ブランドの大ヒットにより、急成長を遂げてきた。この10年間で、年商は約6倍に拡大。とくに直近の5年間は毎年、前年比130%近く売上を伸ばし続け、現在、一部の商品では注文から1か月以上の入荷待ちとなるほどに人気を集めている。
精米歩合の違いなどによって『獺祭』ブランドには数種類の商品が発売されているが、いずれも純米大吟醸で、酒米には酒造好適米として知られる山田錦を使用。それも、最上級の特Aランクに指定された兵庫県加東市の特定地域産の酒米だけを用いているという。
なかでも、その人気を決定づけたのは『獺祭 磨き二割三分』である。精米歩合を23%まで高めるこだわりぶりで、清酒独特のツンとしたクセがなく、果実を思わせる華やかな香りと、すっきりしていながら深みのあるぜいたくな味わいが、女性からも支持されている。
ちなみに、「獺祭」とは書物や資料を周囲に広げて詩文の想を練る姿を意味する言葉で、その姿が捕獲した魚を河原に並べるという獺(かわうそ)の奇妙な習性を想起させることに由来する。桜井博志社長の命名は、「獺越(おそごえ)」という特徴的な所在地名からの連想だが、獺祭書屋主人とも号した正岡子規の革新性にあやかる決意表明でもあった。
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近ごろでは、精米歩合が20%を切る酒も出てきたようですが、『二割三分』をつくった当時は、日本で最も精米歩合の高い酒だったと思います。
90年ごろに発売した『獺祭』が評判になりかけていた時期ですから、その数年後だったでしょうか。ブレイクするには、何かもうひと押しが必要だと考えていたところ、「日本一」をアピールする町おこし運動が目につきました。そのころ、流行っていましたよね。では、酒の品質で日本一の実現が可能なのは何だろうと考えているうち、思いついたのが精米歩合でした。
ですから、お恥ずかしい話ですが、実に単純な思いつきが発想の原点なんですね。しかも、23%という数値そのものに意図があったわけではなく、当初は25%で計画していたんです。ところが、すでに24%の酒が市販されていることがわかって、急遽、2%ほど高めたというのが真相です。われながら、いい加減な経営者だと思います(笑)。
酒米を磨けば磨くほど雑味なく香り立つ
完成した『二割三分』は、おかげさまで少しずつ話題になりました。一方で、ご批判もいただきました。「もったいない」というご批判です。たしかに、特Aの山田錦を77%も磨いてしまうのですから、大変にぜいたくです。しかも、理論上は50%も磨けば糠や胚芽を取り除くことができるとされていますから、それ以上に精米歩合を高めても、酒の品質にはほとんど影響がないと考えられてきたんですね。雑味の原因となるのは、それらに含まれるタンパク質です。
ところが、できた酒を実際に口にしてみると、想像をはるかに超える仕上がりでした。おそらく、それまでは先入観に縛られていたのか、「磨き」を追求することに本気で取り組む蔵元が少なかったのでしょう。もちろん、磨けばそれだけ酒米が減ってコストがかさむわけで、酒米が砕けないように磨く技術的な難しさもあります。ですが、実際に挑戦してみると、やはり磨けば磨くだけの意義はあると実感させられました。
『二割三分』を筆頭に、『獺祭』には精米歩合によっていくつかの商品がありますが、私どもでは大吟醸しかつくりませんから、精米歩合はすべて50%を切ります。酒蔵としての平均精米歩合は41%で、そこまで磨くと、味に雑味がなくなるだけでなく、果物のような独特の吟醸香が出てくる。酵母がアミノ酸やクエン酸といった有機酸を生成するからです。『獺祭』のフルーティな香りは、酵母のおかげとも言えるのです。
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1950年、桜井社長は山口県周東町(現岩国市)に生まれた。家業の旭酒造は、江戸時代の1770(明和7)年創業と伝わる。1892(明治25)年、桜井社長の祖父が蔵元の経営権を入手。その後、2代目を父が継いだ。
1973(昭和48)年、桜井社長は松山商科大学(現松山大学)を卒業。西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年、旭酒造に入社した。だが、酒づくりの方向性や経営をめぐって父と対立するようになり、退社。親戚に石材採掘業者がいたことから、79年に桜井商事を設立し、石材卸業を始めた。
将来への布石が倒産の危機を招く
以後、桜井社長は酒造業から離れ、桜井商事を年商2億円の事業に育てるが、84年、父の急逝により旭酒造の3代目を継ぐ。その後、石材卸業は従業員に譲渡して、旭酒造の経営に専念するようになった。だが、3代目としての歩みは、まさに苦難の道のりだった。
社長就任時、清酒業界には第1次焼酎ブームの逆風が吹いていた。同社も、販売量が最盛期の3分の1まで減少。年商は前年比85%という厳しい状況で、関係者からは倒産も遠くないと思われていた。桜井社長は、看板商品だった本醸造一級酒『旭富士』を主力として、紙パック入り商品の発売や大胆な値引き政策で経営の立て直しを図ったが、改善には至らなかった。
その後も試行錯誤を繰り返したが、やがて酒造業の原点に立ち返るべく、品質重視の経営に転換。それにともない、東京圏の大消費者層にねらいを定めた大吟醸酒の開発に取り組んだ。そして、数年の後、『獺祭』が誕生する。
それ以降、売上は着実に伸び、経営の危機を脱するが、99年、岩国市の観光名所「錦帯橋」そばにオープンしたレストランが、わずか3か月足らずで閉店。損失額は当時の年商に匹敵する約2億円に及び、旭酒造は再び倒産の危機に直面した。
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ようやく先代からの「負の遺産」を解消できたころで、経営のさらなる安定をめざして地ビールの製造とレストラン経営に進出したのですが、これが大失敗でした。
ご承知のように、酒造業では杜氏という特殊な集団が重要な役割を果たしてきました。ところが、杜氏も高齢化が進んで、数自体が年々、減り続けていましたから、近い将来、私どもの若い社員が酒づくりに取り組まなければいけない時代がくる。
それを見据えたとき、経営における最大の問題は酒づくりの仕事がない夏場をどう乗り切るかなんですね。そこで、夏場に最盛期を迎える地ビールの製造に乗り出し、お客様にそれを提供する場としてレストランもオープンしました。もっとも、レストランについては、観光名所のすぐそばですから、観光客の誘致に少しでも貢献できれば、という気持ちもありました。
ところが、オープン当初はにぎわったものの、間もなくお客様がほとんどこなくなってしまった。あっという間に撤退を余儀なくされて、将来への布石を打つどころではなくなってしまいました。
杜氏に見限られたことで自由な発想の酒を実現
さらに、悪いことは重なるもので、そういう状況を見て、杜氏が去ってしまいました。清酒以外の事業に手を出した酒蔵に、愛想を尽かしたというのでしょうか、もう旭酒造に未来はないと判断されたのかもしれませんね。振り返ってみても、このころが最も苦しい時期だったように思います。
でも、杜氏に見限られたことで、結果的に私どもは杜氏に頼らない酒づくりを実現することになります。皮肉な話ですが、もしこのとき杜氏が私どもを見捨てなかったら、現在の旭酒造も『獺祭』もなかったと思う。社員杜氏がつくったから、『二割三分』という、ある意味で酒造業の常識から自由な発想の酒も生み出せたと思うんです。
杜氏がいないことで生じる不利は、たしかにありました。しかし、実際に社員杜氏だけで酒づくりに挑戦してみると、技術的な面では、ほとんど問題ないことがよくわかりました。杜氏がいなければ酒はつくれない、というのは、もはや幻想なんですね。
若い社員がほとんどですから、経験不足は否めません。研究を重ねる過程は、決して簡単ではありませんでした。しかしながら、社員杜氏が実力において劣るわけではないことは、生意気な表現かもしれませんが、『獺祭』が証明してくれていると思っています。
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地ビールとレストランの失敗で経営は危機に瀕したが、結果として、それは旭酒造にさらなる飛躍をうながした。
杜氏が去った後、『獺祭』の通年製造による製造能力の拡大に挑戦し、厳格な温度管理などのノウハウを獲得することで、それを実現。『獺祭』人気による需要の高まりに応じて、製造設備も拡充されてきた。
また、東京圏での実績に自信を深めた桜井社長は、2000年ごろから海外にも本格的に進出。05年からは、将来の4代目の承継を予定する桜井一宏常務がニューヨークに常駐し、米国市場の開拓に取り組んでいる。昨年には、審査が厳しいことで知られるユダヤ教徒の清浄食品基準「コーシャー」を獲得。地酒としては初めてのケースという。現在、『獺祭』は米仏など17か国で販売され、その売上は年商の1割を占める。
地域住民がわずか500名ほどの過疎地域に生まれた『獺祭』は、各界から注目されるブランドに成長した。欧州某国では、元首クラスのVIPがファンを公言。異例ともいえる人気は意外な世界にも広がり、アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』では、主要人物が愛飲する酒として描かれているという。
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品質にこだわる酒は、往々にして「幻の酒」になります。製造や品質管理に手間がかかるぶん、製造量が限られてくるのは、ある程度、仕方のないことかもしれません。でも、私は『獺祭』を幻の酒にはしたくない。決して廉価ではありませんが、ちょっとしたお祝いの席とか、贈答品などで、その気になれば誰でも手軽に楽しめる身近な酒にしたいと考えています。ですから、現在の状況は心苦しくて、最近は製造能力の増強を最大の課題としてきました。
私が3代目を継いだころ、私どもの製造量は年間700石(約126キロリットル)でした。そのうち、純米酒はわずかに10石です。それが、いまでは純米大吟醸だけで年間8000石(1440キロリットル)まで拡大しました。いまや、ものづくりのセオリーとも言える多品種少量生産とは、まったく逆方向をめざしていることになります。
このことは、私どもにとってはもちろんですが、山田錦を生産する農家にとっても喜ばしいことなんですね。つまり、『獺祭』が世界中で飲まれれば、日本の農業も潤う。そういう点でも、海外市場の開拓に努める意義は小さくないと自負しています。
とはいえ、いくら市場を遠くに求めても、私どもがこの獺越から離れることはありません。世界中のどこで飲まれようと、『獺祭』は山口の酒であって、山口から離れたら『獺祭』ではなくなってしまう。いつまでもこの獺越で製造し続けることが、地元への恩返しにもなると信じています。
月刊「ニュートップL.」 2012年12月号
編集部
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