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人工心臓から視覚障がい者用筆ペンまで、「世の中にないもの」をつくり出す(有限会社安久工機 社長 田中隆)

キラリと光るスモールカンパニー

掲載内容は取材当時のものです。
現在の情報と異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。


東京都大田区にある典型的な町工場ながら、その技術力で高く評価されているのが安久工機だ。

とくに医療機器の開発では、早稲田大学や東京女子医科大学と共同で人工心臓関連装置の開発に携わり、「安久工機なくして日本の人工心臓研究はない」と言われるほど。

不可能を可能にする、親子二代のものづくりにかける思いを田中隆社長に聞いた。

◇    ◇    ◇

使い込んだ手動式の工作機械が所狭しと並んだ工場の一角に「機械式血液循環シミュレータ」モデルが無造作に置いてある。血液を模した赤い水が透明な2つの容器に入っており、その間をパイプがつなぎ、空気圧による拍動で循環している。

安久工機の田中隆社長(58歳)が開発したこの装置は、人工心臓の性能や耐久性、血液の流れを調べるためのものだ。この試験装置の開発によって、動物実験を大幅に減らすことができたという。

田中社長は早稲田大学や東京女子医科大学の依頼を受け、人工心臓関連の装置や部品、実験用装置などの開発を行なってきた。医療の世界では「日本の人工心臓開発は安久工機が支えている」と言われるほど大きな役割を果たしている。そのほか、ロボット関連、人工衛星関連装置、原子力発電向け機械部品など、先端分野で試作を請け負っているが、言われるままにただ設計するような下請け仕事は断わってきた。

「早稲田大学や東京女子医科大学とは、父の代から長いつき合いがあり、『田中のところなら細かく言わなくてもわかるだろう』と、いろいろな仕事が回ってきます。どんなに難しい依頼でも、基本的には断わりません。大手企業の研究者・開発者個人からも直接依頼があります。最近ではホームページ経由の開発依頼も多いですね」と、田中社長は技術力を誇る様子もなく語る(以下、発言は同氏)。

医療機器から折りたたみ式コーンまで

田中社長が開発する医療機器が、いかに医師たちに頼りにされているか、いくつか例を挙げてみよう。

まず、東邦大学医療センターの尾﨑重之教授が考案した、大動脈弁狭窄症などに対する画期的な治療法である「自己心膜による大動脈弁形成術(患者自身の心膜から弁をつくり出して患者の心臓に埋め込む手術法)」のために必須の、患者に合った最適な大きさの弁をつくるための測定用器具の開発。同センターから依頼を受け2007年から研究に着手、4年を費やして開発に成功し、治療法の確立に貢献した。これにより、大田区の中小企業新製品・新技術コンクールの優秀賞を受賞する。

また、東京女子医科大学のプロジェクトに参加し、脳腫瘍手術における患者の後遺症を防ぐモニタリングシステムの開発にも携わった。これは、開頭手術中に患者を覚醒させ、絵を見せて、その反応によって脳機能を確認しながら行なう手術だ。これによって後遺症が残る部位を正確に避けながら手術することができる。田中社長は11年から3年間をかけて、絵を表示するモニターや患者の状況をリアルタイムに表示、記録する一連のシステムの部品設計・製作を担当した。

こうした最先端医療機器の開発だけではなく、安久工機はオリジナリティに富んだユニークな製品の企画・設計・製造・販売も行なっている。

田中社長の一番下の弟であり、頼りになる右腕として営業やホームページづくりを担当している務氏のアイデアで95年に生まれたのが、折りたたみ式のカラーコーン『パタコーン』である。

務氏は取引業者との雑談中に、「従来の円錐型コーンではかさばってパトカーにたくさん積み込めず警察が困っているらしい」と聞いた。創業者である父の故・田中文夫氏と一緒に、三角錐型でスプリングによって簡単に開閉でき、たたむと平らでコンパクトになるコーンを開発、特許を取得した。好評を呼び、97年には警察装備資機材開発改善コンクールで警察庁長官官房長賞に輝いた。現在までに4万本を売るヒット商品になっている。

視覚障がい者のために触ってわかる筆ペンを開発

視覚障がい者のための触図筆ペン『ラピコ』も独自に開発した製品である。これはインクの代わりに蜜蝋を使い、ヒーターで溶かした蜜蝋で線を描くことができるしくみになっている。描くと10~20秒で蝋が固まり、盛り上がった部分を指でなぞることで、視覚に障がいがあっても文字や絵を認識できる。失敗しても、ヘラで削れば修正可能。視覚に障がいをもった子供の教育に役立つ製品だ。

香川県立盲学校で美術を教える栗田晃宜教諭が、視覚障がい者が使える絵筆があれば、と考えたのがそもそもの始まりだった。栗田教諭は蜜蝋を使うアイデアはすぐに思いついたが、素人では簡単にはつくれず、製品として具現化してくれそうな中小企業10社にメールでコンタクトを取った。04年のことだ。そのうちの1通が大田区の中小企業に届いた。自社では難しいと考えたその工場の社長は、「安久ならできるかもしれない」と町工場仲間の田中社長にメールを転送した。

先代は「不可能を可能にする」が口癖だった。困り事を抱えた人から頼られると、どんな難題でも引き受けた。その血を受け継いでいる田中社長も、栗田教諭の思いをなんとか形にしたいと思った。その日からアイデアを練り、栗田教諭とは直接会って話を聞いた。交わしたメールは数100通にもおよぶ。

だが、製作は簡単ではなかった。当初はペン先を針金で工夫してみたが、一度描くと曲がってしまい、元に戻らない。描くために溶かした蜜蝋は、筆先からポタポタと垂れてとても絵など描けなかった。試行錯誤を繰り返し、最終的にはペン先に形状記憶合金を使い、軸となる胴体の中にバルブを仕込み、ペン先を押すと蝋が出るようにすることで、ようやく筆として使えるようになった。

また、ヒーターや電源部分についても工夫を重ね、子供でも持ちやすい長さ11センチ程度、重さも150グラムほどの小型化を実現。デザイン性も高めて、12年に発売した。栗田教諭からも「生徒が喜んでいる」と感謝の言葉が届いた。

田中社長はラピコの普及のため、全国を回ってワークショップを開いている。「初めて絵を描いた」とはしゃぐ視覚障がいの子供たちに接して感動したという。視覚障がい者と晴眼者(せいがんしゃ)のコミュニケーションに役立つこともわかってきた。また、アートとしての新しい表現や、蝋結染めの筆代わりにも使われ始めている。こうした活動が評価されて、12年には東京都より「福祉のまちづくり功労者」として知事感謝状を受賞した。

父が大学で指導した教え子たちから受注

田中社長のものづくりへの思いは父譲りだ。文夫氏は宮崎県都城市安久町の出身で、社名は生まれ故郷に由来する。高校卒業後、福岡県の炭鉱に勤務したが、トロッコの脱線事故に巻き込まれ、左手の神経が断裂、感覚を失ってしまった。大学に入学したいと事故の労災見舞金を持って上京、夜間部に通いながら昼はアルバイトに精を出したが、経済的にも肉体的にも大学に通い続けることはかなわなかった。

その後、23歳のときに大田区の町工場で働き始めた。小さな工場だったが、そこにはハンマー1つで金属板を限りなく平滑に加工できる名人級の職人がいた。その名人にあこがれ精進するうちに、文夫氏は職人の中核的存在となる。

この工場は当時の大手計器メーカーである北辰電機製作所と取引しており、文夫氏は同社の課長だった故・土屋喜一氏と出会った。土屋氏はその後、早稲田大学理工学部の助教授となり、東京女子医科大学と共同で人工心臓の研究を開始する。文夫氏は土屋氏の要請でプロジェクトに参加するようになり、土屋研究室の学生たちに図面の書き方や加工の仕方を指導した。現在の医工連携の先駆けである。文夫氏はこれを契機として69年に独立、大田区下丸子に安久工機を設立した。

安久工機は北辰電機の下請け仕事をしつつ、土屋研との関わりを深めていく。文夫氏は様々な試験装置や医療機器の試作開発を引き受けながら、土屋研の学生たちの指導を続けた。教え子は700人に達するという。彼らが大学や病院の研究者、大手企業の開発者として巣立ち、人脈がさらに広がっていった。

田中社長自身は、82年に東京農工大学大学院機械工学修士課程を修了。安久工機ではなく他の企業への就職を考えていたが、父から「うちに来るんだろう」と言われる。勝手に決められてたまるかと反発し、親子仲も険悪になりかけた。しかし、子供のころからものづくりが好きだった田中社長は、大手で歯車の1つになるより、設計から組み立てまですべての工程を手掛けたいと、安久工機への入社を決めた。

家業に入る前に武者修行を、と考えた田中社長は、土屋研究室の学生として文夫氏の指導も受けていた梅津光生氏を頼った。梅津氏が大阪の国立循環器病センター研究所の研究員となり、人工心臓の研究開発に取り組んでいることを聞き、頼み込んで人工臓器部に研修生として入れてもらった。田中社長はそこで、人工心臓をはじめとする人工臓器を研究し、検査装置の設計・開発を担当する。その成果の1つが、前述の機械式血液循環シミュレータである。4年間の修行の後、86年に安久工機に入社した。

梅津氏はその後、オーストラリアで人工心臓開発プロジェクトのリーダーを経て、92年に早稲田大学理工学部の教授に就任。現在、同大先端生命医科学センター長である。田中社長は、父の教え子たちや東京女子医科大学の人脈に加えて、梅津教授や循環器病センターで知り合った研究者から、さらに幅広く検査装置などの試作開発を請け負うようになった。

町工場の力で不可能を可能にする

「おつき合いさせていただいている先生方は、昼間は臨床で治療に当たり、その後で夜遅くまで研究に力を尽くされているような尊敬すべき方々ばかりです。ただ、私は決して医者が上で、町工場が下の立場だとは思っていません。対等なパートナーとして先生方の希望やニーズをしつこいぐらい聞きますし、私も言いたいことを言います。工夫を凝らしてよりよいアイデアを提案し、先生に選んでもらう。まれに『言われた通りにつくっていればいいんだ』とおっしゃる先生もいますが、そうした依頼はお断わりすることもあります」

田中社長の言う「工夫」を具現化しているのは、実は大田区の中小企業仲間だ。安久工機は企画・設計を行なうが、部品加工は父の時代から最もふさわしい仲間に外注し、安久工機で組み立てて検査し、納品している。いまでいうところの「コーディネーター型企業」である。もちろん、ちょっとした加工は自分でもできるが、50社以上ある大田区内の協力会社と連携して製作するのが基本的なスタンスだ。

「父は生前、一番大事なのは協力会社のみなさんだ、といつも言っていました。加工をお願いするときに、仲間からアドバイスを受けることもあります。同じ旋盤でも、企業の得手不得手があり、父の代からそれを熟知しているので、いい関係が保てるのでしょう」

田中社長は仕事を外注する際、決して見積もりは取らず、出来映えと請求書を見て、協力企業の得意分野を判断するという。文夫氏がよく言っていた「不可能を可能にする」が叶うのも、協力企業があってのことだ。

現在も田中社長は新たなテーマに挑んでいる。たとえば、視覚障がい者が、水泳のクロールでターンをする寸前にそのタイミングを教える装置の開発や、機械的可動部品を使わずに水をスプリンクラーのように撒くことのできる散水素子の農業への応用などである。いままでに存在しない、社会に役立つものをつくりたいといつも考えている。

田中社長は亡き父の思いを受け止め、「不可能を可能にする」親子二代のものづくりを続けていく。

 月刊「ニュートップL.」 2014年6月号
吉村克己(ルポライター)


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